「組手 (空手)」の版間の差分

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戦後の沖縄では、昔からの伝統的な型稽古が主流であったが、一方で一心流(島袋龍夫)、[[上地流]](上地完英)、沖縄拳法([[中村茂]])、本部流([[上原清吉]])のように、組手稽古を重視する流派もあった。また、組手試合の開催も本土より出遅れていたが、1960年代後半から各流派・団体が個別に開催する形で徐々に始まった。
 
[[国体|国体]]への参加は、本土流派が中心となって制定したルールや組織の問題(特に[[全日本空手道連盟]]への加盟問題)への反発から、沖縄県体育協会(県体協)に加盟する全沖縄空手道連盟(会長・八木明徳)が反対したため見送られていた。しかし、沖縄での国体開催が近づく中で、ついに県体協は全沖縄空手道連盟を脱会処分にし、代わりに国体参加を容認する新設の沖縄空手道連盟(会長・[[長嶺将真]])を加盟させた<ref>高宮城繁・新里勝彦・仲本政博編著『沖縄空手古武道事典』柏書房、2008年、134頁参照。</ref>。翌{{和暦|1982}}には、沖縄空手道連盟主催の第一回空手道選手権大会が島根国体の予選も兼ねて開催された。その後は、{{和暦|1987}}に沖縄県で開催される[[第42回国民体育大会|海邦国体]]へ向けて取り組みが強化され、競技組手の普及とレベルアップが図られた。
 
しかし、この国体参加問題は、沖縄空手各流派・団体の間に深刻な亀裂をもたらした。全沖縄空手道連盟、沖縄空手道連盟の他に、国体参加等の思惑から沖縄県空手道連盟という別の団体が組織され、ますます混迷を深めた。こうした状況の中で、沖縄独自の組手をどうするかという問題は置き去りにされたまま残り、なし崩し的に本土の競技空手に迎合したことについては批判も存在する。