「野木氏」の版間の差分

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== 野木(乃木)氏(宇多源氏佐々木氏族) ==
出雲国に発祥の氏族で、同国内の地名に由来し、表記は、野木、乃木、能義、野城が通じて用いられている。
 
[[宇治川の先陣争い]]で知られる[[佐々木高綱]]の次男・[[野木光綱|光綱]]が、[[出雲国]][[能義郡]]野城郷(または[[意宇郡]]乃木保)に住し、野木二郎左衛門尉と称したのに始まる。光綱は、叔父の[[隠岐]]守・[[佐々木義清]]の[[猶子]]となったとされる。なお『[[尊卑分脈]]』をはじめとする諸系図に[[鎌倉時代]]の数代が載るほか野木一次資料としては乃木「出雲千家文書」所収の文永8(1271)年の関東御教書「出雲国杵築大社御三月会相撲舞頭役結番事」に能義出雲国内の地頭として野城光綱裔と推定される次の一族通じて用いられている。
 能義郡乃白庄  乃木太郎兵衛尉(光綱の子・春(泰)高又は孫・景元に比定) 
高綱の名が後世まで高く語り継がれる一方で、子孫は振わず、『[[尊卑分脈]]』をはじめとする諸系図に[[鎌倉時代]]の数代が載るほかは、出雲千家文書所収の文永8(1271)年の関東御教書に、出雲国内の能義郡乃白庄、意宇郡乃木保、神戸郡木津御島の地頭(又は荘官)として、光綱の子と思われる乃木姓の一族の記載があるなど、一次資料に断片的に名を留めるのみである。
 〃 日吉末社  同人
 意宇郡乃木保  乃木七郎 (光綱の子・七郎景家に比定)
 神戸郡木津御島 乃木四郎子(四郎高定の子、大伴氏系図によれば母は朝山惟綱娘)
一次資料に断片的に名を留めるのみである。
 
高綱の名が平家物語等で後世まで語り継がれる一方、子孫は振るわず[[大身]]の武家となる有力な系統が出なかったため、[[室町時代]]以降の詳細は不明であるが、隠岐流・佐々木氏の宗家である[[塩冶高貞]]が暦応4(1341)年に山名時氏らに追討された後は、出雲[[守護]]となった[[山名氏]]や[[京極氏]]などの[[被官]]となり、一族は[[但馬国]]や[[畿内]]などに分散していった模様であり、一次資料や軍記物に断片的に登場している。
天文3年(1535年)の但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年(1569年)8月24日付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。
 
天文3年(1535年)の但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年(1569年)8月24日付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。
 
これら一族のうち[[毛利氏|毛利家]]に仕えた[[乃木傳庵|乃木氏]]の末裔に、[[明治時代]]の陸軍軍人・[[乃木希典]]や[[玉木文之進]]が連なる。希典は祖先に対する尊崇の念が強く、一族全国各地で高綱流[[玉木文之進]]ととも調査・顕彰努め、殉死前には、同家の系図を整備し、[[佐々木氏]]の氏神である[[沙沙貴神社]]に奉納している。また、甥にあたる[[玉木正之]]も乃木・玉木両家の系図を詳細に整備している。
 
 
== 関連項目 ==