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== 野木(乃木)氏(宇多源氏佐々木氏族) ==
出雲国に発祥の氏族で、同国内の地名に由来し、表記は、野木、乃木、能義、野城が通じて用いられている。
[[宇治川の先陣争い]]で知られる[[佐々木高綱]]の次男・[[野木光綱|光綱]]が、[[出雲国]][[能義郡]]野城郷(または[[意宇郡]]乃木保)に住し、野木二郎左衛門尉と称したのに始まる。光綱は、叔父の[[隠岐]]守・[[佐々木義清]]の[[猶子]]となったとされる。
能義郡乃白庄 乃木太郎兵衛尉(光綱の子・春(泰)高又は孫・景元に比定)
〃 日吉末社 同人
意宇郡乃木保 乃木七郎 (光綱の子・七郎景家に比定)
神戸郡木津御島 乃木四郎子(四郎高定の子、大伴氏系図によれば母は朝山惟綱娘)
一次資料に断片的に名を留めるのみである。
高綱の名が平家物語等で後世まで語り継がれる一方、子孫は振るわず[[大身]]の武家となる有力な系統が出なかったため、[[室町時代]]以降の詳細は不明であるが、隠岐流・佐々木氏の宗家である[[塩冶高貞]]が暦応4(1341)年に山名時氏らに追討された後は、出雲[[守護]]となった[[山名氏]]や[[京極氏]]などの[[被官]]となり、一族は[[但馬国]]や[[畿内]]などに分散していった模様であり、一次資料や軍記物に断片的に登場している。
天文3年(1535年)の但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年(1569年)8月24日付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。▼
▲天文3年(1535年)の「但馬國宮内惣持寺本尊造立奉加帳」には、乃木日向守、乃木丹後守の名が記載されている。但馬國宮内には、山名氏宗家の居城である此隈山城があるが、同城の武家屋敷跡から出土した永禄12年(1569年)8月24日付の木札にも乃木出羽守の記載があり、山名氏家臣団に組み込まれた系統があったのは確かであろう。
これら一族のうち[[毛利氏|毛利家]]に仕えた[[乃木傳庵|乃木氏]]の末裔に、[[明治時代]]の陸軍軍人・[[乃木希典]]や[[玉木文之進]]が連なる。希典は祖先に対する尊崇の念が強く、
== 関連項目 ==
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