「貴志康一」の版間の差分

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== 生涯 ==
 母の実家の仙洞御料屋敷西尾邸に生まれる。父方の祖父は代々式部卿を務め、後に[[メリヤス]]業で成功した裕福な大商家という環境で育つ。小学校5年生の時に、[[芦屋市]]に転居、14歳より、[[神戸市]]の[[深江文化村]]で[[ミハイル・ヴェクスラー]]に直接[[ヴァイオリン]]を師事。音楽理論と作曲法を当時、宝塚交響楽団の指揮を務めていたヨセフ・ラスカより学ぶ。16歳の時に、大阪で、ヴァイオリニストとしてデビュー。[[甲南中学校・高等学校|旧制甲南高等学校]]を2年生の時に中退後、[[ジュネーヴ音楽院]]に入学し、優秀な成績で修了。19歳より、[[ベルリン芸術大学|ベルリン高等音楽学校]]で[[カール・フレッシュ]]の教室に在籍。[[1929年]]、1710年製の[[ストラディヴァリウス]]を購入。三度のヨーロッパ留学の中でも、特に1932~35年の[[ベルリン]]滞在時に[[作曲家]]・[[指揮者]]として活躍し、同時期に1935年3月、ドイツ[[テレフンケン]]社に自作作品19曲を貴志自身の指揮で[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]と録音した。また[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー|フルトヴェングラー]]とも親交があったことで知られる。ヴァイオリニストから作曲・指揮者に転向したと言われるが、作曲・指揮活動で多忙になってからもヴァイオリニストとしての活動も諦めてはいなかった。[[1935年]]に帰国した後は指揮者などとして活躍するが、1936年に[[虫垂炎]]をこじらせ、1937年11月、[[腹膜炎]]の為、28歳で死去した。墓は[[京都市]][[右京区]]にある[[妙心寺]]徳雲院にある。
 
1936年には三回日本で[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]の[[交響曲第9番 (ベートーヴェン)|第九]]を指揮している。その内の1回は新交響楽団(現[[NHK交響楽団]])2月19日146回定期演奏会におけるものである(日本初の暗譜指揮による「第九」演奏であった)。