「アドルフ・マンジュー」の版間の差分

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[[フランス人]]と[[アイルランド人]]の血を引いて、[[ペンシルベニア州]][[ピッツバーグ]]に生まれた彼は<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0579663/bio IMDbのバイオグラフィ]によると、"His Irish mother was a distant cousin of novelist/poet James Joyce ("Ulysses") (1882-1941). His Frenczfather, an émigré, eventually moved the family to Cleveland, Ohio, where he operated a chain of restaurants."(訳:彼のアイルランド人の母親は、[[ジェームズ・ジョイス]]の遠いいとこである。彼のフランス人の父は[[フランス革命]]時の亡命貴族で、最終的に家族で[[オハイオ州]][[クリーブランド (オハイオ州)|クリーヴランド]]に移り住んだ際、レストランチェーンを開いた)とある。</ref> [[カトリック教会]]を信仰する一家に育てられ、[[:w:Culver Military Academy|Culver Military Academy]]を出て、 [[コーネル大学]]でエンジニアリングの学位を取得して卒業。[[ヴォードヴィル]]の魅力に引き付けられ、1916年''The Blue Envelope Mystery''で俳優デビューを果たす。[[第一次世界大戦]]のさなか、彼は救護班のリーダーとして活躍した。
 
1947年、マンジュー はハリウッドで[[赤狩り]]が猛威を振るった時、[[:en:House Committee on Un-American Activities|非米活動調査委員会]]と手を組み、[[:en:Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals|Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals]]という、ハリウッドにおける共産主義対策の自己流[[パトリオティズム]]団体の主要メンバーを務めていた。この団体には1939年に『ゴールデン・ボーイ』で共演した [[バーバラ・スタンウィック]]とその夫 [[ロバート・テイラー (俳優)|ロバート・テイラー]]もいた。
 
政治的信念のためにキャサリン・ヘップバーンとは対立していた。マンジュー は『[[ステージ・ドア]]』と『愛の立候補宣言』に、 [[スペンサー・トレイシー]]と共に出演したが、へプバーンが共産主義者と疑われた際、彼女はアメリカ人の告げ口に反対した。ウィリアム・マンは自叙伝 ''Kate''において、『愛の立候補宣言』で脚本上やむを得ずしゃべらなければいけない時だけしか2人は口を利かなかったとしている。