「小林よしのり」の版間の差分

 
=== 『ゴーマニズム宣言』以降 ===
*[[1992年]]に『'''[[ゴーマニズム宣言]]'''』を[[月刊宝島]]に連載した『[[おこっちゃまくん]]』を元に、[[扶桑社]]の[[SPA!]]で開始(1月22日号より)。社会に切り込む内容で反響を呼んだ。その後、漫画活動の軸足をこれへと移していく。
*1989年に起きた[[坂本堤弁護士一家失踪事件]]では、漫画上で[[オウム真理教]]を激しく追及。これに対しオウム真理教は[[VXガス]]による暗殺を試みるが、失敗に終わる。
*1995年 SPA!誌上でのオウム真理教の扱いをめぐり、[[靍師一彦]]編集長や[[宅八郎]]、[[松沢呉一]]らと対立。SPA!での連載を8月2日号をもって終了し、小学館「[[SAPIO]]」で9月27日号より『'''新・ゴーマニズム宣言'''』を開始する。その後、宅は扶桑社の意向で小林批判を自粛させられるが、[[切通理作]]を批判する中で、プライバシーを侵害したと切通の抗議を受け、連載が打ち切られた。小林はSPA!連載分の単行本版権を扶桑社から引き上げ、[[双葉社]]に移した(文庫版は[[幻冬舎]])。
*[[薬害エイズ事件|薬害エイズ]]問題では一時期「[[HIV訴訟を支える会]]」代表に就任し精力的に活動。訴訟自体は[[厚生省]]の全面謝罪により勝訴するが、その後、運動に協力した学生ボランティアが日常に戻らず市民活動家(もしくは偏向した思想団体の成員)になる事を危惧して発した警告が元でトラブルとなる。「ボランティアの役目は終わった。後はプロフェッショナルの仕事であり、君達はプロになるためにもっと勉強をするべきだ」と学生の日常への復帰を求める小林に対し、支える会を支援していた各思想団体より「ボランティアの役目は永遠に終わらない、二度と悲劇が起こらないよう行政をボランティアの目から監視すべきだ」と反論。ボランティアたちは団体活動の一体感に酔い、思想団体の側について小林を攻撃し、両者は決裂に至る。その後、小林はその一部始終を「'''新ゴーマニズム宣言スペシャル・脱正義論'''」として書き下ろした。この一件以後、一部の小林支持者と対立する局面がしばしば発生する事になる。
*歴史教科書問題では、「[[新しい歴史教科書をつくる会]]」に参加。自らも教科書の内容を執筆、漫画上でも克明に作業ややりとりについて記した。しかし、会の運営に就いて内部で行き掛かりが発生、小林は一部支持者の親米主義に対して批判を行い脱会。
*『'''新ゴーマニズム宣言スペシャル・[[戦争論 (小林よしのり)|戦争論]]'''』では[[大東亜戦争]]での日本軍の軍事行動を自存自衛の行動とし、賛否両論を招いた。続く『'''戦争論2'''』では[[2001年]][[9月11日]]の[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]を非難するなら、アメリカの空爆も非難されるべきだと問題提起した。それまで小林の言動を支持していた[[親米]][[保守]]の中から一転批判に転じる者もいた。小林も自分を批判する親米保守を[[ポチ保守]]と反批判、これ以降小林は保守・右翼の立場ながら[[反米]]の立場を取る。
*『'''[[台湾論]]'''』は中国語版が台湾で発売されたとき、台湾の年配者たちは自分たちの忠実な代弁者であるこの作品に衝撃を受け、狂喜したたが、台湾の人口の一割にすぎない[[外省人]]にとっては都合の悪い論調が目立った為に彼らから批判され、その一派により小林の台湾入国禁止処分にまで及んだが、それは台湾の大多数の国民の反感を買い、最後には[[陳水扁]]総統や中華民国総統府国策顧問の[[金美齢]]らの抗議声明にまで発展、台湾中が「金美齢に続け」と立ち上がり、小林の入境禁止処分は約20日間(小林本人曰く、「世界最短記録」らしい)で解かれることになった。『台湾論』は瞬く間に24万部も売れ(日本における500万部相当ともいわれる)、空前のベストセラーとなった。
*[[2004年]]4月より約三カ月おきのペースで評論家・[[西部邁]]との対談本『'''本日の雑談'''』シリーズを刊行。これは政治や経済からスポーツ・芸能にいたるまでの幅広い時事問題を二人が「雑談」形式でざっくばらんに話したものである。2005年11月までに第8巻まで刊行している。
 
== 著書 ==
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