「シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル」の版間の差分
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'''シャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル'''({{lang|de|Charlotte Christine von Braunschweig-Wolfenbüttel}}, [[1694年]][[8月29日]] - [[1715年]][[11月2日]])は、[[ロシア帝国|ロシア]]の皇族[[アレクセイ・ペトロヴィチ]]大公(皇帝[[ピョートル1世]]と最初の妃エウドキア・ロプキナの長男)の妃。[[ピョートル2世]]の母。
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公[[ルートヴィヒ・ルドルフ (ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公)|ルートヴィヒ・ルドルフ]]とエッティンゲン侯女シャルロッテ・ルイーゼの次女として、[[ブラウンシュヴァイク]]で生まれた。姉[[エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル (
[[1711年]][[10月25日]]、トルガウ(現在の[[ドイツ]]・[[ザクセン州]][[ライプツィヒ行政管区|ライプツィヒ県]]の町)でアレクセイと結婚。シャルロッテは[[正教会|正教]]への改宗を強制されず、[[ルーテル教会|ルター派]]のままでいてよいと許された。その代わり、生まれる子供たちは正教徒として育てることに同意した。アレクセイは初めから結婚に気が進まず、結婚後もシャルロッテのことを「あばた顔」「やせっぽち」と公言して、彼女を公の場で無視した。[[1714年]]、長女ナターリア([[1714年]] - [[1728年]])を出産。アレクセイは[[フィンランド人]]の愛妾アフロシニアと宮殿で暮らし、妻子を顧みなかった。長男ピョートル(のちの皇帝[[ピョートル2世]])を出産後、シャルロッテは[[サンクトペテルブルク]]で急死した。
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