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==略歴==
[[タランコン]]に生まれる。[[サラマンカ大学]]で勉学中の[[1523年]][[ドミニコ会]]に入会し、[[フランシスコ・デ・ビトリア]]のもとで学んだ。その後[[バリャドリッド]]のドミニコ会学院で[[哲学]]・[[神学]]を教えた。[[1542年]]には[[アルカラ大学]]の神学教授([[1546年]]まで)になり、1546年ビトリアが死去すると、サラマンカ大学で師が担当していた神学講座を引き継いだ。[[1550年]]には[[インディアス]][[先住民]]([[インディオ]])問題に関して[[バルトロメ・デ・ラス・カサス|ラス・カサス]]と[[フン・ヒネス・デ・セプルベダ|セプルベダ]]が争った「[[バリャドリッド論争]]」に審議会委員として参加、ラス・カサスを支持した。翌[[1551年]]から[[1552年]]まで、スペイン国王(カルロス1世)でもあった皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の要請により、皇帝任命の神学顧問として[[トリエント公会議]]に参加した。[[1554年]]にはバリャドリッドのドミニコ会学院の院長に就任し、ここで国王[[フェリペ2世 (スペイン王)|フェリペ2世]]の政策を支持し[[ローマ教皇|教皇]][[パウルス4世 (ローマ教皇)|パウルス4世]]と対立したため、[[教皇庁]]の顰蹙を買い、また設立されたばかりの[[イエズス会]]を非難した。これらのことがあってカノは[[1557年]]以来再度[[管区長]]に選出されたにもかかわらず、パウルス4世の承認を得ることができず、[[ピウス4世 (ローマ教皇)|ピウス4世]]によって[[1560年]]ようやく承認を受けたが、同年のうちに[[トレド]]で死去した。
 
==業績==