「マルカントニオ・インジェニェーリ」の版間の差分

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生い立ちについてはほとんど分かっていないが、おそらく一族は[[ヴェネツィア]]の出身であり、[[パルマ]]で[[チプリアーノ・デ・ローレ]]に師事しているかもしれない。[[1570年]]のある時期に[[クレモナ]]に移り、作曲家や器楽演奏家として名を揚げた。どうやら[[オルガン]]奏者だったらしく、腕利きの演奏家として知られていたようだ。[[1581年]]にクレモナ大聖堂の事実上の終身楽長に就任する。
 
インジェニェーリは、[[対抗改革]]の推進および[[トリエント公会議]]の遂行に余念のなかったニコロ・スフォンドラート司教(後の[[ローマ教皇]][[グレゴリウス14世]])と親しく、そのことがインジェニェーリの作品にも如実に影響を及ぼし、その音楽はきまってパレストリーナ様式の単純さや明晰さを示している。事実インジェニェーリの27曲の《レスポンソリウム》は、長らく誤ってパレストリーナ作品と推定されてきた。しかしながら、いくつかの楽曲は、トレント公会議の改革派の公式見解をいわば無視している。最も問題になるのが4声体の[[モテット]]《ノエ、ノエ ''Noe noe''》で、二十回転カノンで作曲されている。この作品では、テキストを聴き取るには並外れて鋭い耳が必要になろう。つまりテクストの判りやすさは、トリエント公会議によって作曲家に課されたひとつの要請だったのにである。
 
インジェニェーリの[[ミサ曲]]は簡潔で短く、比較的ホモフォニックに作曲され、単純明快さにいてはしばしばパレストリーナを凌いでいる。[[マドリガーレ]]は保守的になりがちで、精彩ある[[半音階]]や[[音画]]を試みた同時代の[[ルッツァスコ・ルッツァスキ]]や[[ルーカ・マレンツィオ]]らの新機軸をあからさまに無視している。