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戦後、鉱山労働者の組織化に着手し、日本鉱山労働組合会長となる。1951年、日本労働組合総同盟総主事に就任。また、東京第4区から[[日本社会党]]公認で衆議院議員に立候補し、3回当選している。
 
1951年の日本社会党分裂以後は右派社会党に属し、中央執行委員をつとめていたが、[[1954年]][[9月26日]]、遊説先の[[北海道]]から[[東京]]への帰途、[[冨吉榮二]]と共に乗船した[[青函連絡船]][[洞爺丸]]が折からの台風に遭遇し、[[函館市]][[七重浜]]で沈没する[[洞爺丸事故]]に遭遇して落命した。{{没年齢|1901|3|1|1954|9|26}}。
 
==参考文献==
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