「カール5世 (神聖ローマ皇帝)」の版間の差分

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===退位と晩年===
1548年には[[ネーデルラント17州]]のスペイン王国およびフランスからの分離独立を認めている(1548年の国事勅定)。さらに[[1550年]]には[[バリャドリッド論争]]」の名知られる、アメリカ先住民([[インディオ]])の地位とインディアス問題についての関する審議会を開いている。これは[[バルトロメ・デ・ラス・カサス|ラス・カサス]]らの長年の活動が実ったともいえるもので、最終的にエンコミンダの世襲化の導入が阻止されるなど、ラス・カサスの努力が報われる形となり、アメリカ先住民への不当な行為の撤廃を目指した非常に画期的な審議会となった。
 
[[1556年]]、長年の[[痛風]]及び統治と戦争に疲れたカール5世は退位を決意する。両親から受け継いだスペイン・ネーデルラント関係の地位と領土は全て息子のフェリペ2世に譲り、父方の祖父から受け継いだオーストリア・神聖ローマ帝国関係の地位と領土は弟のフェルディナント1世に継承させた。この頃すでに神経衰弱気味であったといわれているカール5世は、スペインの[[ユステ修道院]]に隠棲した。もっとも、隠遁生活といってもケーキ職人・料理人・音楽家・時計技術者を抱えての生活だったいう。1558年に亡くなった。晩年の10年ほどは常に痛風の激痛に悩まされていた(にもかかわらず、ビールを大量に飲み続けた)。