「第一次王子の乱」の版間の差分

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李氏朝鮮初代国王太祖([[李成桂]])の男子8人のうち先妃韓氏所生の子は6人で、即位以前から成人していたが、長男の[[李芳雨]]は[[1393年]]に病死していた。そこで成桂は寵愛する継妃康氏の子である、まだ幼い8男の李芳碩を世子とすることを決め、建国の功臣たちもその意向に従っていた。
 
[[1398年]]、五男[[太宗 (朝鮮王)|李芳遠]]は、[[鄭道伝]]が計画した遼東への遠征軍の編成を、自分たちの排除の口実と受け取った。そこで先妃所生の王子たちが結束して、鄭道伝ら重臣たちを殺害し、加えて世子芳碩とその兄で7男の李芳蕃を殺害した。
 
事件後、太祖は譲位し、事件の主役芳遠は親族・臣下の反撥を考慮して、王位を辞退し、子供のいない次男・[[李芳果]](定宗)を推挙、即位させた。李芳遠は、丞相として実権を掌握し、国家体制の強化を推進した。