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[[File:Ishikawa Masamochi.jpg|thumb|300px|石川雅望  『国文学名家肖像集』より]]{{文学}}
'''石川雅望'''(いしかわ まさもち、[[宝暦]]3年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1754年]][[1月7日]]) - [[文政]]13年[[3月24日 (旧暦)|閏3月24日]]([[1830年]][[5月16日]]))は、[[江戸時代]]後期の狂歌師・国学者・戯作者。狂歌名は[[宿屋飯盛浮世絵師]][[石川豊信]]の五男として江戸に生まれる。通称は石川五郎兵衛。号は六樹園・五老など。家業の宿屋を江戸[[小伝馬町]]で宿営む傍ら狂歌師[[太田南畝]](四方赤良)もとで[[狂歌]]を学んだ。[[天明]]年間初期(1781年-1789年)から、狂歌の四天王の一人として、版元である[[蔦重三郎]]から多くの狂歌書出版している。寛政三年(1791年)宿屋の業許可をめぐり贈収賄の嫌疑をうけ、江戸払いとなる。この間文芸学の研究に打ち込み古語辞典「雅言集覧」、や源氏物語の研究書「源註余滴」等の学術書を書いた。[[文化 (元号)|文化]]に江戸にもどり狂歌師として復活。雅望のグループを、伯楽連と称した。天明狂歌を主張して、俳諧歌を主張した[[鹿津部真顔]](しかつべ の まがお)と対立した。文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となった、狂歌の軽妙さと諧謔性を主んじた。[[国学者]]としても知られる
 
そのほかの著書として、撰集「万代狂歌集」「都の手ぶり」、読本として雅言集覧近江県物語」などがある。
[[天明]]年間初期(1781年-1789年)から[[狂歌]]を読み、狂歌の四天王の一人として、版元である[[蔦屋重三郎]]から多くの狂歌書を出版している。雅望のグループを、伯楽連と称した。[[文化 (元号)|文化]]年間(1804年-1818年)天明狂歌を主張して、俳諧歌を主張した[[鹿津部真顔]](しかつべ の まがお)と対立した。文化文政時代の狂歌壇を二分する勢力となった、狂歌の軽妙さと諧謔性を主んじた。[[国学者]]としても知られる。[[狂歌]]は、[[太田南畝]]に学んだ。
著書として「万代狂歌集」「都の手ぶり」「雅言集覧」などがある。
 
雅望は、[[浮世絵師]]として、活躍した[[石川豊信]]の子である。
 
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