「55年体制」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
6行目:
[[太平洋戦争]]後、[[無産政党]](日本社会党や[[日本共産党]]等)が合法化される一方で、同時に、[[保守]]政党が乱立する事態が発生した。[[1951年]]に日本社会党が、[[日本国との平和条約|講和条約]]と[[日米安全保障条約]](安保)に対する態度の違いから、[[右派社会党]]・[[左派社会党]]に分裂していたが、保守政権による「[[逆コース]]」や[[改憲]]に対抗するために、「護憲と反安保」を掲げ、[[1955年]]に[[社会党再統一]]を果たした。この日本社会党の統一に危機感を覚えた財界からの要請で、当時あった[[日本民主党]]と[[自由党]]が[[保守合同]]して自由民主党が誕生し、保守政党が第一政党となった。そして、ここに、「改憲・保守・安保護持」を掲げる自由民主党と、「護憲・革新・反安保」を掲げる日本社会党の二大政党体制、55年体制が誕生した。
 
55年体制の定義は[[与党]]の自民党と[[野党]]の社会党という構図、自民党と社会党が対立している構図、自民党が第一党で社会党が第二党という構図、自民党と社会党が政界で大きな影響力を持っている構図など諸説あるが、一般的には第一与党の自民党と第一野党の社会党という構図が有力である。
 
1955年当時の国際情勢は[[アメリカ合衆国]]と[[ソビエト連邦]]による[[冷戦]]体制だったので、55年体制も冷戦という国際社会に合わせた日本の政治構造(「国内冷戦」)であると指摘する意見がある。