「岸信介」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
無意味な武士の画像を削除
276行目:
{{出典の明記|date=2010年7月|section=1}}
*岸は安保闘争による国内混乱の責任を取り辞任するが退陣会見で「私が日米安保改定を実現した事は必ず後世の歴史が評価してくれるだろう」と発言した{{要出典|date=2010年7月}}。この「時の世論から非難される政策であっても、後世の歴史が正当に評価してくれる」という趣旨の発言は、消費税導入を実現した竹下登首相や、靖国神社参拝問題で中国との関係を硬化させた小泉純一郎首相も行っている{{要出典|date=2010年7月}}。
*岸は3度死を覚悟をしたことがあると語っている。1度目は東条内閣と閣僚として東条首相と対立して閣僚辞表提出を拒否した時、2度目はA級戦犯容疑で捕まった時、3度目は安保改訂の際に首相官邸でデモに取り囲まれた時の3度である。
*戦時中の1945年、[[座骨神経痛]]を病み、郷里山口で保養中だった。ところが同年[[鈴木貫太郎内閣]]で[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]になった同郷の[[安倍源基]]から「非常時だから何かやってくれ」「新設された(全国8ヵ所に置かれた)[[地方総監府]]の長官を引き受けてくれ」と言われた。岸は「分かった。しかし場所は山口から近い[[広島市|広島]]にして欲しい」と答えると「広島は昨夜[[内務省]]の先輩の[[大塚惟精]]を決めたばかりなので、他はどこでもいいけれど広島は困る」と言われ、この話は流れた。大塚はこの数ヶ月後[[広島市への原子爆弾投下]]で被爆死した<ref>『岸信介の回想』73、74頁</ref><ref>『日本宰相列伝.20 岸信介』85頁</ref>。
*[[東京都]][[渋谷区]]南平台(地区は[[松涛]])の岸邸隣に[[世界基督教統一神霊協会]](統一教会)があり、岸も、統一教会本部やその関連団体「[[国際勝共連合]]」本部に足を運んだ<ref name="aitenaikokuaijin">[[久保木修己]]『愛天愛国愛人 ─母性国家、日本のゆくえ─』(世界日報社、1996年発行)</ref>。日本での「国際勝共連合」の設立の際に[[児玉誉士夫]]、[[笹川良一]]と共に協力した<ref>{{cite web|url=http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/078/1110/07810211110004c.html|title=第078回国会 外務委員会 第4号 [[1976年]](昭和51年)10月21日 |accessdate=8月26日|accessyear=2007年}}</ref>。