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[[京都]][[聖護院]][[宮侍]]だった[[富井政恒]]の長男として現在の[[京都府]][[京都市]]に生まれた。
 
[[民法典論争]]では、[[フランス法]]を参考にした[[ギュスターヴ・エミール・ボアソナード|ボアソナード]]起草にかかる旧民法は、[[ドイツ法]]の研究が不十分であるとして[[穂積陳重]]らと共に延期派にくみし、断行派の[[梅謙次郎]]と対立したが、富井の[[貴族院 (日本)|貴族院]]での演説が大きく寄与したこともあって旧民法の施行は延期されるに至り、梅、穂積と共に民法起草委員の3人のうちの一人に選出された。[[商法]][[法典調査会の委員]]でもある。
 
[[法実証主義]]・ドイツ法の立場に立ち、[[自然法論]]・フランス法の立場に立つ梅と対立し、日本のドイツ法学導入の先駆者とされる。もっとも、旧民法起草当時日本にドイツ法の思想はほとんど入ってきておらず、また富井自身も梅、穂積と異なりドイツに留学したことはなかったため、民法のできる前は特にドイツ法の思想を主張したことは無かった。しかし、富井付きの起草補助委員だった[[仁井田益太郎]]が[[ドイツ語]]に精通していたため、彼の手になる[[ドイツ民法]]草案第一・第二の翻訳を通じてよくドイツ法の思想を消化し、「近世法典中の完璧とも称すへきもの」<ref>富井政章民法原論第一巻総論序5頁</ref>であるとしてほとんどドイツ法一点張りで民法を作ろうという勢いであったとされ(仁井田の回想による)、日本民法学におけるドイツ法的解釈の端緒を切り拓いた<ref>[[仁井田益太郎]]「仁井田博士に民法典編纂事情を聴く座談会」(法律時報10巻7号24頁)</ref>。
 
他方、国の実情を直視し、沿革的・比較法的研究を踏まえつつも法の不備を認め<ref>法の不備を認めるものとして、特に富井著民法原論第一巻総論71頁、民法原論第三巻債権総論上85頁</ref>、原理・原則を簡明に明らかにして裁判官の運用にゆだねるべきとするのが、法典論争からの一貫した主張であり、主著民法原論に現れたように、それが学風となっている<ref>[[大村敦志]]「富井政章」(法学教室186号32頁)</ref>。
 
長年にわたり東京帝大の民法講座を担当し、後に[[鳩山秀夫]]に引き継がれることになる東大民法学の基盤を確立。
 
晩年には民法改正([[親族法]][[相続法]])の改正にも着手したが、[[第二次世界大戦|戦争]]によって頓挫し、これは後に[[中川善之助]]・[[我妻栄]]らに引き継がれることになる。
 
[[刑法]]では、ボアソナードの弟子の[[宮城浩蔵]]らがフランス新古典派・折衷主義の立場をとっていたのに対し、[[犯罪]]の急増する社会情勢に対応できないと批判していち早く主観主義をとる新派刑法理論を主張した。その理論は、社会防衛論を基礎とする厳罰的主観主義で、[[刑法 (日本)|現行刑法]]の成立に大きく寄与した。
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== 著書 ==
*[http://homepage1.nifty.com/ksk-s/minpogenron1.htm 『民法原論第一巻総論』](有斐閣)
*[http://homepage1.nifty.com/ksk-s/minpogenron2a.htm 『民法原論第二巻物権』](有斐閣)
*民法原論第三巻債権総論上(有斐閣)
*債権総論完(信山社)
*債権各論完(信山社)
*損害賠償法[講義]原理(信山社)
*刑法[明治13年]論綱(信山社)
 
== 脚注 ==