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[[File:Condé, Louis VI Henri de - 2.jpg|thumb|ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデ]]
'''ルイ6世アンリ・ジョセフ・ド・ブルボン=コンデ'''('''Louis VI Henri Joseph de Bourbon-Condé''', [[1756年]][[9月13日]] - [[1830年]][[8月27日]])は、[[フランス王国|フランス]]の貴族。初めは[[ブルボン公]]で、[[1818年]]に[[コンデ公]]となる。コンデ公[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|ルイ5世]]と[[スービーズ公シャルル・ド・ロアン]]の娘シャルロットの第1子として生まれる。妹はルイーズ・アデライード
 
[[1777年]]の[[謝肉祭]]の[[仮面舞踏会]]で、妻の[[ルイーズ・マリー・バティルド・ドルレアン|バティルド]]([[:de:Bathilde d’Orléans|Bathilde d'Orléans]]:[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の長女)が、同じく舞踏会に出席していたアルトワ伯(後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])の愛人の仮面を取ったところ、カッとなったアルトワ伯はバティルドの顔面を殴った。後日、バティルドの舅のコンデ公はアルトワ伯に謝罪請求をしたが、無視されてしまう。怒りの収まらないコンデ公に促されて、息子のブルボン公はアルトワ伯に[[決闘]]を申し込んだ。そして数日後、2人はブーローニュの森で剣を抜いて決闘をした。決闘自体は、途中で立会人が割って入ったので、ブルボン公の方が傷とも言えない掠り傷を負っただけで済んだ。
[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|コンデ公ルイ5世]]とシャルロット・ド・ローアン=スービーズの第1子として生まれる。妹は、ルイーズ・アデライード。初めは[[ブルボン公]]で、[[1818年]]に父の死により[[コンデ公]]となる。
 
[[1787年]]の[[名士会]]では父と共に出席し、あらゆる改革に反対した。[[1788年]]12月2日に[[ヴェルサイユ宮殿]]に参内し、アルトワ伯、父コンデ公、息子の[[アンギャン公]][[ルイ・アントワーヌ・ド・ブルボン=コンデ|ルイ・アントワーヌ]]、同族のコンティ公[[ルイ・フランソワ2世 (コンティ公)|コンティ公ルイ・フランソワ2世]]ととも[[全国三部会]]の頭数による投票に反対する覚書を[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に提出した。[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発すると父やコンティ公と共にドイツの[[コブレンツ]]に[[亡命]]した。[[1814年]]にフランスへ帰国し、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]を補佐するが、1830年にサンルーの居城で死去。窓のイスパニア錠で首を吊っている状態で発見されたが、足は床についていたので自殺であったかは疑わしい
[[1777年]]の[[謝肉祭]]の[[仮面舞踏会]]で、妻の[[ルイーズ・マリー・バティルド・ドルレアン|バティルド]]([[:de:Bathilde d’Orléans|Bathilde d'Orléans]]:[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の長女)が、同じく舞踏会に出席していたアルトワ伯(後の[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])の愛人の仮面を取ったところ、カッとなったアルトワ伯はバティルドの顔面を殴った。後日、バティルドの舅のコンデ公はアルトワ伯に謝罪請求をしたが、無視されてしまう。怒りの収まらないコンデ公に促されて、息子のブルボン公はアルトワ伯に[[決闘]]を申し込んだ。そして数日後、2人はブーローニュの森で剣を抜いて決闘をした。決闘自体は、途中で立会人が割って入ったので、ブルボン公の方が傷とも言えない掠り傷を負っただけで済んだ。
 
一人息子のルイ・アントワーヌは[[1804年]]に[[ナポレオン・ボナパルト]][[暗殺]]容疑で処刑されたため、ルイ6世アンリの代でブルボン=コンデ家は断絶、遺産は妻の[[続柄#大甥|又甥]]に当たるフランス王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ]]の5男・オマール公[[アンリ・ドルレアン (オマール公)|アンリ・ドルレアン]]に与えられた。
[[1787年]]の[[名士会]]では、父と共に出席し、あらゆる改革に反対した。[[1788年]]12月2日に[[ヴェルサイユ宮殿]]に参内し、アルトワ伯、父コンデ公、息子の[[アンギャン公ルイ・アントワーヌ]]、[[ルイ・フランソワ2世 (コンティ公)|コンティ公ルイ・フランソワ2世]]とともに、[[全国三部会]]の頭数による投票に反対する覚書を[[ルイ16世 (フランス王)|ルイ16世]]に提出した。
 
[[1789年]]に[[フランス革命]]が勃発すると、コンデ公、コンティ公と共にドイツの[[コブレンツ]]に[[亡命]]した。[[1814年]]にフランスへ帰国し、[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]を補佐するが、[[1830年]]にサンルーの居城で、窓のイスパニア錠で首を吊っている状態で発見されたが、足は床についていたので自殺であったかは疑わしい。ルイ6世アンリの代でブルボン=コンデ家は断絶した。
 
{{先代次代|[[コンデ公]]|1818年 - 1830年|[[ルイ5世ジョゼフ (コンデ公)|ルイ5世ジョゼフ]]|―}}