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|画像代替文 = ゲオルギオス1世
|画像説明 =
|地位 = [[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国王の一覧|国王]]
|在位 = [[1863年]][[3月30日]] - [[1913年]][[3月18日]]
|戴冠 = [[1863年]][[10月31日]]
|脚注 = [[ファイル:commons-logo.svg|12px|ウィキメディア・コモンズ]] '''[[Wikipedia:ウィキメディア・コモンズ|ウィキメディア・コモンズ]]'''には、'''ゲオルギオス1世'''に関連する'''[[:commons:Category:George I of Greece|カテゴリ]]'''があります。
}}
'''ゲオルギオス1世'''({{翻字併記|el|'''Γεώργιος Α΄ της Ελλάδας'''|Geórgios Aʹ, [[バシレウス|Vasiléfs]] ton Ellínon}}、[[1845年]][[12月24日]] - [[1913年]][[3月18日]])は、[[ギリシャ王国|ギリシャ]]の[[ギリシャ国王の一覧|国王]](在位:[[1863年]][[3月30日]] - [[1913年]][[3月18日]])。元々はデンマーク王子だったが、[[1863年]]に[[ギリシャ議会|議会]]で初代国王[[オソン1世]]の廃位と、自身の即位が可決されると、[[グレートブリテンおよびアイルランド連合王国|イギリス]]や[[フランス第二帝政|フランス]]、[[ロシア帝国|ロシア]]など[[列強]]諸国の支援もあって、17歳の若さで王位に就いた。これに伴い、デンマークの国教である[[ルーテル教会]]から[[ギリシャ正教会]]に改宗した。
 
王位に就いた当時は、ギリシャは後進国の位置に甘んじており、このような同国の問題点の解決に努めた。ゲオルギオス1世は[[一院制]][[議会]]を施行し、ギリシャが[[立憲君主制]]国家であることを宣布し、経済面に力点を置いた近代化を志向した。中でも特に力を注いだ農村環境の改善は、[[1920年]]に実現することとなった。一方で、[[1864年]]には[[イオニア諸島]]、[[1881年]]には[[テッサリア]]、[[1912年]]には[[マケドニア (ギリシャ)|マケドニア]]・[[イピロス]]・[[テッサロニキ]]、[[1913年]]には[[クレタ島]]を獲得した。
== 生涯 ==
=== 幼年期 ===
[[デンマーク]]君主一覧|デンマーク国王]][[クリスチャン9世 (デンマーク王)|クリスチャン9世]]の次男クリスチャン・ヴィルヘルム・フェルディナント・アドルフ・ゲオルク(Christian Wilhelm Ferdinand Adolf Georg、{{lang-el|Χριστιανός Γουλιέλμος Φερδινάδος Αδόλφος Γεώργιος}})として、[[首都]][[コペンハーゲン]]で生まれた。デンマーク王子時代は、祖父[[フリードリヒ・ヴィルヘルム (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)|グリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルム]]とヘッセン=カッセル=ルンペンハイム伯ヴィルヘルムに因んだ“ヴィルヘルム”の名で呼ばれていた。
 
[[1852年]]に、父が嗣子のいないデンマーク国王[[フレゼリク7世 (デンマーク王)|フレゼリク7世]]の継承者に選ばれ、一家はデンマーク王子ならびに王女の称号が与えられることとなった。兄はデンマーク王[[フレゼリク8世 (デンマーク王)|フレゼリク8世]]、姉に[[イギリス君主一覧|イギリス王]][[エドワード7世 (イギリス王)|エドワード7世]]の王妃[[アレクサンドラ・オブ・デンマーク|アレクサンドラ]]、妹に[[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル3世]]の皇后[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|マリア(ダグマール)]]、[[ハノーファー王国]]の元王太子[[エルンスト・アウグスト (ハノーファー王太子)|エルンスト・アウグスト]]の妃[[ティーラ・フォン・デーネマルク|ティーラ]]、弟に[[ヴァルデマー (デンマーク王子)|ヴァルデマー]]がいる。
 
ヴィルヘルムはデンマーク海軍の士官として活躍するようになったが、1863年3月30日にオソン1世の後継者として[[ギリシャ国王の一覧|ギリシャ国王]]に選出され、父より7ヵ月半先に王位に就くこととなった。
 
=== 他の継承者候補 ===
[[ファイル:George of Greece III.jpg|thumb|left|180px|ギリシャ式の正装姿のデンマーク王子ヴィルヘルム(後のゲオルギオス1世)]]
ゲオルギオス1世は、ギリシャ国民が初めて選択した国王ではなかった。オソン1世の打倒と同時に、国民の多くは共和国より君主制を支持したが、オソン1世の弟で[[推定相続人]]である[[ルイトポルト・フォン・バイエルン|ルイトポルト]]の王位継承を拒絶した。多くのギリシャ国民は、列強の一つであるイギリスとの関係強化を模索し、[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ヴィクトリア女王]]の次男である[[エディンバラ公]][[アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公)|エディンバラ公アルフレッド]]に王位継承を打診した。イギリスの外相だった[[パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル|ヘンリー・テンプル]]は、ギリシャ国民は「領土の拡張を熱望している」と考え、当時イギリスの保護領だったイオニア諸島でも同島のギリシャへの割譲を望む声が挙がった。しかし、[[1832年]]の[[ロンドン会議 (1832年)|ロンドン会議]]では、いずれの列強諸国の王族もギリシャの王位を継承することを禁止するとして、ヴィクトリア女王も次男のギリシャ王位継承に断固として反対した。それでも、ギリシャ国民は国民投票を実施し、240,000票中95%がアルフレッドの王位継承を望むという結果となり、共和制への移行案が93票、ギリシャ国民の中から国王を選出するという案が6票、オソン1世体制の維持案が1票を獲得した。
 
結局、ギリシャ政府と列強はデンマークのヴィルヘルム王子の王位継承を選択した。前国王オソンと新国王ヴィルヘルムとの間には2つの違いがあり、1つにはヴィルヘルムは列強による強要ではなく、ギリシャ議会の満場一致によって選出され、2つには「ギリシャの国王」ではなく「ギリシャ人の国王」と宣言された、という点にある。
1864年から1874年にかけて、ギリシアは21回も内閣の交代が起こり、最も長く続いた政権でも、その期間は1年半に過ぎなかった。1874年6月に、[[ハリラオス・トリクピス]]はカイロイ紙に匿名で、安定した政府の欠如による継続的な政治不安は、ゲオルギオス1世と彼の補佐役たちに原因がある、という内容の論説を書いた。論説の中でトリクピスは、国王が少数派内閣を国民に強要することによって、専制君主であるかのように振舞っている、と訴えた。他にも、国王が議会で最多数の支持を得た政治家を首相に指名した場合、政治家たちは連立政権を成立させるために協調せざるを得なくなるり、そのような方法こそが、政治的不安定を収め、群小政党を減らすことに繋がる、と主張した。この論説を書いたとされる人物が逮捕された後、トリクピスは自ら論説を書いたことを認め、身柄を拘束された。しかし、このことが国民からの批判を買ったことにより、トリクピスは釈放され、「憲政秩序毀損」の容疑は無罪判決を受けることとなった。翌年、国王はトリクピスに(最多数を確保することは出来なかったが)政権を構成することを打診し、今後は議会における多数党の代表を首相に指名する、と宣言した。
 
1870年代を通して、ギリシャは[[オスマン帝国]]への圧力を保ち続け、[[イピロス]]と[[テッサリア]]に領土の拡大を求めた。[[1877年]]から[[1878年]]の[[露土戦争 (1877年)|露土戦争]]によって、ギリシャは初の潜在的同盟を得ることとなった。ゲオルギオス1世の妹[[マリア・フョードロヴナ (アレクサンドル3世皇后)|ダグマー]]は、[[ロシア帝国ツェサレーヴィチ|ロシア]]皇太子]][[アレクサンドル3世|アレクサンドル]]の妻であり、ギリシャが戦争に参加できるよう画策したが、イギリスとフランスによって拒否されることとなり、ギリシャは中立を保持することとなった。1878年に開催された[[ベルリン会議 (1878年)|ベルリン会議]]でロシアとオスマン帝国が停戦協定を締結する際、ギリシャは[[クレタ島]]とイピロス、テッサリアに対する権利を主張した。
 
[[1880年]]6月に、イギリスとフランスによって[[オリンポス山]]と[[ヨアニナ]]を含んだギリシャに非常に有利な提案がなされたとき、ギリシャの国境線はまだ確定していなかった。オスマン帝国がこの提案に強く反対した際、トリクピス首相はギリシア軍の動員をほのめかすという過ちを犯した。イギリスはギリシャ側に有利な提案を支持したが、時を同じくして、フランスで首相が[[シャルル・ド・フレシネ]]から[[ジュール・フェリー]]に交代したことによって、列強の間で論難が起き、オスマン帝国はギリシャにテッサリア全域を割譲するが、イピロスは[[アルタ (ギリシャ)|アルタ]]周辺地域のみに留めることを表明した。トリクピス政権が退陣に追い込まれた後、新しく首相となった[[アレクサンドロス・クムンドゥロス]]は、新しい国境線をやむを得ず受け入れた。
== 家族 ==
[[ファイル:Greek Royal Family II.jpg|thumb|right|240px|ゲオルギオス1世と家族たち(1892年)]]
1867年に[[ロシア帝国君主一覧|ロシア皇帝]]皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]の弟[[コンスタンチン・ニコラエヴィチ|コンスタンチン]]大公の娘である[[オルガ (ギリシャ王妃)|オリガ・コンスタンティノヴナ]](ギリシャ語名オルガ)と結婚し、[[サンクトペテルブルク]]で挙式を行った。
 
夫妻は8人の子をもうけた。
* [[アレクサンドラ・ゲオルギエヴナ|アレクサンドラ]]([[1870年]] - [[1891年]]) ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]の息子[[パーヴェル・アレクサンドロヴィチ|パーヴェル大公]]と結婚。[[グリゴリー・ラスプーチン|ラスプーチン]]暗殺者である[[ドミトリー・パヴロヴィチ|ドミトリー大公]]の母
* [[ニコラオス・ティス・エラザス (1872-1938)|ニコラオス]]([[1872年]] - [[1938年]])
* [[マリア・ゲオルギエヴナ|マリア]]([[1876年]] - [[1940年]]) [[ロシア大公一覧|ロシア大公]][[ゲオルギー・ミハイロヴィチ (1863-1919)|ゲオルギー・ミハイロヴィチ]]と結婚。のちペリクレス・ヨアニデスと再婚。
* オルガ([[1881年]])生後3ヶ月で夭折
* [[アンドレオス (ギリシャ王子)|アンドレオス]]([[1882年]] - [[1944年]]) [[エディンバラ公]][[フィリップ (エディンバラ公)|フィリップ]]の父
* [[クリストフォロス (ギリシャ王子)|クリストフォロス]]([[1888年]] - [[1940年]])アメリカ人富豪メイ・リーズと死別後、ギーズ公女フランソワーズと再婚し、一人息子ミカエルがある。
 
妻との間では[[ドイツ語]]で、[[英語]]で教育されていた子供たちとは主に英語で会話した。
 
{{先代次代|[[ギリシャ#歴代君主王の一覧|ギリシャ国王]]|1863年 - 1913年|[[オソン1世]]|[[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]}}
 
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