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岩見浩造 (会話 | 投稿記録)
→‎ダイヤ改正の内容: 貨物列車削減と再編成の経緯について詳細化する。
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=== 急行の特急格上げ ===
国鉄では、[[急行列車]]を[[特別急行列車|特急列車]]に格上げすることで増収を図ろうとし、[[常磐線]]では特急「[[ひたち (列車)|ひたち]]」を増発した代わりに同量の急行を削減した。また、利用客が少なかった急行列車も削減・廃止され(特に[[山陽本線優等列車沿革#山陽新幹線全線開業|山陽本線の夜行列車]])、このダイヤ改正では特急を36本増発した代わりに急行が57本削減された。この改正では特急列車に原則として[[自由席]]が連結されるようになったことに加え、[[紀勢本線]]の電化が完成し特急「[[くろしお (列車)|くろしお]]」に[[振り子式車両]]の[[国鉄381系電車|381系電車]]が投入された。
=== 新幹線 ===
[[国鉄労働組合|国労]]はこの改正に先立ち、[[騒音]]、[[振動]]が沿線住民に与える影響を名目とし、過渡的措置として新幹線の最高スピードを160キロ、市街地では110キロに抑えるように提言していたが、国鉄当局がこの提案をダイヤ改正で反映することは無かった<ref name="roudo-keizai1977-0610">国労の新幹線のスピードダウン、貨物運賃引き上げ要求に関しては下記。<br />「国鉄再建に関する緊急提案」 国鉄労働組合 1976年11月<br />「国鉄再建・民主化問題関係基本資料」『労働経済旬報』1977年6月10日 P92-95に転載</ref>。
 
なお、市街地での最高速度制限は1985年に延伸された[[東北・上越新幹線]][[大宮駅 (埼玉県)|大宮駅]]以南で実現した([[東北・上越新幹線反対運動]]を参照)。
=== 東北本線・高崎線の規格ダイヤ化 ===
輸送客が減少したとはいえ、東京以北の[[東北本線]]・[[高崎線]]・[[常磐線]]といった路線では、まだ[[東北新幹線]]・[[上越新幹線]]が開通していないため特急・急行・普通・貨物といった各列車がひしめきあい、線路が酷使されて列車が異常な振動を起こすまでに至っていた。そんな中でも列車を増発する必要があったため、規格ダイヤを導入して特急列車の運転速度を若干低下させる苦肉の策がとられた。例えば[[上野駅]]~[[新潟駅]]間の「[[とき (列車)|とき]]」では約15分、上野駅~[[青森駅]]間の「[[東北本線優等列車沿革|はつかり]]」では約30分ほど所要時間が延びた。さらに座席を増やすため、一部の東北・上越系統の特急列車では[[食堂車]]の連結を取りやめ、座席車を増結させた。
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=== 貨物列車の大幅削減 ===
[[貨物自動車|トラック]]輸送の発達や労使関係の悪化による、争議行為の頻発で国鉄の貨物取扱量は急速に低下していた。国鉄貨物局が執筆した記事によれば昭和40年代国内総物流が10年間でほぼ2倍に増加したのに対して、国鉄貨物の輸送量は46年(1971年)までは横ばい、47年(1972年)からは急減していった。一方で、貨物列車設定キロは53万~55万キロの間で推移を続け、1975年度で見た場合、輸送量との乖離は25%に及んでいた(なお、1975年度の列車設定キロは55万キロ)。そのため、当時[[貨車]]をたらい回しする貨物列車が多数存在していたことから、[[貨物列車]]はこの改正で大幅に削減された。
==== 『今後の国鉄貨物営業について』の提示 ====
この傾向を問題視した国鉄当局はスト権スト直後の1975年12月31日の[[閣議|閣議了解]]で国鉄再建対策要綱が通過したことを受けて、下記のように
 
:「当面昭和55年度において貨物固有経費で収支均衡することを目標」
 
として、貨物輸送の見直し作業を実施した。その方向性としては荷主の輸送需要への対応、鉄道貨物輸送が本来持っている優位な特徴の回復などを主眼とし、近代化計画を織り込んだものだった。この結果は1976年12月20日に『今後の国鉄貨物営業について』という冊子に纏められ、各労組を含む関係各方面にも配布された。
 
『今後の国鉄貨物営業について』で示された近代化目標は下記のようになっている<ref name="kokutetsusen1977-11">「今後の貨物営業について」および計画概要については下記より抜粋、要約。<br />「今後の国鉄貨物営業について」『国鉄線』1977年11月P6-7</ref>。
 
*列車体系の再編成
:50年度輸送量との乖離約25%、列車設定キロ14万キロを削減
:55年度列車設定キロ約41万キロ、列車設定本数約3500本。
*[[貨物駅]]集約
:約500駅集約し、55年度末までに約1000駅体制
*[[操車場 (鉄道)|ヤード]]統廃合
:約70箇所を廃止し、55年度末までに指定ヤード数を155前後とする。
*車両関係
:[[貨車]]約2万両を削減し、55年度末までに国鉄所有貨車を約10万両とする。
:[[機関車]]約600両を削減し、55年度末までに約2700両とする。
*その他
:自動化、継電化の推進、作業体制、勤務体制を抜本的に見直す。
 
このように、内容は再建対策要綱で求められていた予算人員の削減を反映した、貨物部門の縮小と人員縮減を含むものであった。各労組は労使協調路線を取る[[鉄道労働組合]]も含めてこの指針に反発した。しかし、その一方で、各労使は数次に渡り国鉄当局と協議を実施していた。
 
協議の中で組合側が問題視したのは貨物要員縮減の他に、本数減といった策が、当局側が目標としている輸送量の確保に反する、中小荷主の切捨てであると言った指摘もあった。当局側は近代化は中小荷主を切り捨てるものではないと反論した。
 
なお、国労は大口の大企業向け輸送列車についてはスト権スト後も引き続きストの標的にする旨宣言を行っていた<ref>「スト権ストの賠償訴訟出れば 貨物中心に抵抗闘争」『朝日新聞』1975年12月20日2面</ref>。また、1976年11月に出した『国鉄再建のための緊急提案』では貨物について次のような提案を行っている<ref name="roudo-keizai1977-0610" />。
*貨物運賃はコストをまかなえる水準まで引き上げる
*特定大企業のための政策割引は中止する
*日常生活物資の輸送については物価対策上政策割引を行い、その場合[[原価]]との差額は[[公債]]が負担すべき
 
また、[[国鉄動力車労働組合|動労]]は1977年2月3日の『動労新聞』号外にて「国鉄問題に関する専門報告書」を掲載した。この報告ではスタンスとして反対を維持しつつも、「貨物削減問題に対する闘いにおけるようにたしかに現実的には貨物が無いから列車が運休なり削減されることは一般的には否定しえない事実である」と述べており、一部の学者からは「闘いにおける不利な情勢は、世論をできるかぎり味方につけようと努力すること」「世論のかなりの部分がその「事実」から「ある程度の人員整理はやむを得ない」という結論をひきださないよう、大いなる説得力を発揮しなければならない」と批判され、その学者により「説得の論理」の文案が提示されている<ref>湯川利和「国鉄貨物合理化と政策要求について」『労働法律旬報』1977年6月10日</ref>。
 
==== 計画概要の発表 ====
改正に関わる国鉄の関連部局は労組との協議を継続しつつ、成案となった部分をまとめ『昭和53年10月期にかかわる計画概要』として1977年8月18日に各組合に提示した。その概要は下記のようになっている<ref name="kokutetsusen1977-11" />。
 
*輸送計画
:*コンテナ輸送、物資別適合輸送の着実な推進
:*一般車扱輸送体系の単純化、効率化
:を実施し、1978年度の列車設定キロを約45万キロとする
*貨物駅集約
:駅体制から自動車との協同輸送、および荷役の近代化に対応した近代的な駅体制への転換を図る。
:*52年度計画:180駅
:*53年度計画:96駅
:*54、55年度目標:約300駅
*ヤード再編成
:*53年度まで:26箇所
:*54、55年度目標:約40箇所
*車両関係
:機関車:53年度輸送改善により約300両の縮減
:貨車:53年度末の保有数は約10万両とし、これに伴い平年ベース以上の[[廃車]]とする。
*車両基地:上記縮減に対応し、検修基地の集約を実施
:機関車検修基地:検討中
:貨車検修基地:
:*52年度7箇所
:*53年度11箇所
:*54、55年度目標15箇所
:工場:貨物職場が小規模となる工場においては、貨車職場と他職場との統廃合を実施
 
この提案の時点で、集約対象の貨物駅の実名が挙げられている。貨物駅集約については荷主への影響も大きい為、マスコミを通じて部外へも公表した。1976年7月2日、日本経済調査会の「交通論議における迷信とタブー」で安楽死論が登場していたが、貨物局としては1981年度以降の増送を目標とした体制立て直しを建前としており、「V字型反騰を目指して」「「安楽死」論の立場に立つものではない」と明言していた<ref>「今後の国鉄貨物営業について」『国鉄線』1977年11月P8</ref>。
==== 実施ダイヤなど ====
結果として実施されたダイヤでは、1976年10月ダイヤ改正に比べて貨物列車を664本削減して4,232本、列車キロも6.5万km削減して47万kmとした。また操車場や貨物取扱駅の削減も実施した<ref>『貨物鉄道百三十年史』中巻pp.312-313</ref>。
 
なお、続く[[1980年10月1日国鉄ダイヤ改正|1980年10月のダイヤ改正]]ではさらに6.1万kmの列車キロを削減し、列車設定キロにおいて『今後の国鉄貨物営業について』で目標とした削減をほぼ達成した。しかし輸送量は計画を大きく下回り、運賃値上げにもかかわらず収入が減少して、収支係数がさらに悪化する事態となった<ref>『貨物鉄道百三十年史』中巻pp.314-316</ref>。以降1984年の集結輸送の廃止まで削減傾向が定着することになる。
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==