「嶋重宣」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
50行目:
一軍では2試合に登板したが勝利を挙げられなかった。[[1998年]][[3月7日]]の[[オープン戦]](対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]・[[福山市民球場]])では、プレイボール直後の初球で[[飯田哲也]]に頭部危険球、わずか1球で退場になってしまうという珍記録を樹立。ちなみにプロ初先発の試合では投手ながら2点タイムリーを放って、後に打者として開眼する僅かな兆候があった。野手転向1年目となった[[1999年]]には、[[打率]].280、プロ入り初を含む3本塁打を放つ活躍を見せた。2軍でも3割を超える成績を度々残し、[[2002年]]には打率.314で[[ウェスタン・リーグ]]首位打者も獲得したが、持病の腰痛や[[前田智徳]]・[[緒方孝市]]・[[金本知憲]]などの外野手層は厚く、なかなか試合出場に恵まれずにいた。
 
転機となったのは、10年目にあたる[[2004年]]であった。オープン戦から好成績を残し、前年に[[阪神タイガース]]に移籍した金本の穴を埋める候補として、シーズン開幕から2番に座ると、一時は5割を超える高打率をマークするなどの大活躍を見せ、一気に[[右翼手]]のレギュラーに定着した。その後も順調に安打を量産し続け、一時は当時のリーグ記録であった[[ロバート・ローズ]]の192安打の更新も期待されたが、終盤に疲労と腰痛等の影響でペースは失速し、189安打に終わる。このシーズンは[[首位打者]]と[[安打#最多安打|最多安打]]、更に[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]のタイトルを獲得し、同年の流行語大賞(詳細は後述)でも話題となるなど、注目を浴びた。
 
[[2005年]]は他球団のマークもあり、打率は1度も3割に到達しないままシーズンを終えたが、後半戦からは本来の調子を取り戻し、トータルでは打率.288、27本塁打と[[クリーンナップ]]にふさわしい成績を残した。