「ジョセフ・キーナン」の版間の差分

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キーナンは、[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]の意向を受けて、[[昭和天皇|天皇]]免訴の立場を取った<ref>そのことを物語るエピソードとして、1947年春に[[池田純久]]弁護人([[梅津美治郎]]担当)と食事をした際に、東京に来た理由として「天皇を裁判の証人として出廷させないこと、及び日本の再軍備をやることだ」と語っている(2009年2月22日「[[朝日新聞]]」朝刊より)。</ref>。裁判の進行に連れて、天皇の不起訴について疑問視する声が各方面から聞こえてくると、開廷中にも関わらず一時帰国し、[[1946年]]6月18日、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]で記者会見し、天皇を戦犯として裁判にかける事はないと表明した。
 
[[1947年]]12月31日に、[[東條英機]]が、「天皇の平和に対する希望に反した行動を、[[木戸幸一|木戸]][[内大臣]]がとったことがありますか?」というローガン弁護人の質問に対し、「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、彼是するという事は有り得ぬ事であります。いわんや日本の高官においてをや」と返答した。この事から、[[ウィリアム・ウェブ|ウェブ]]裁判長は回答の持つ重要性を指摘、[[ソビエト連邦]]代表検察官であるS・A・ゴルンスキーも、天皇の訴追についてキーナンに進言した。キーナンは早急に[[田中隆吉]]元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少将]]を通して、[[松平康昌]]式部長官→木戸→東條のルートで、極秘に前述の証言を否定する様、東條説得工作を行った。この工作は功を奏し、[[1948年]]1月6日の法廷で東條は、キーナンの「その戦争を行わなければならない、行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか?」という質問に対し、[[太平洋戦争]]開始の[[詔勅]]の中にある「豈朕カ志ナラムヤ(誠にやむを得ざるものであり、朕の意思にあらず)<ref>意訳では「しかし、今は不幸にしてアメリカ ・イギリスと争いを始めることになったのはまことにやむを得ざることであり、それは私の願いではない」。

</ref>」という言葉を例に、天皇は東條の進言で開戦に「しぶしぶご同意になった」と再証言した。この証言により、天皇の戦争責任に関する問題は決着が付けられ、再び論議が法廷で交わされることはなかった。
 
== 人物 ==