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'''秋月 悌次郎'''(あきづき ていじろう、[[1824年]]([[文政]]7年)- [[1900年]]([[明治]]33年)[[1月5日]])は、[[江戸時代]]後期、[[幕末]]の[[会津藩]]の藩士。父は丸山胤道明治時代の教育者次男ある。名は胤栄字は子錫、号は韋軒。[[明治維新]]後は、秋月胤永(かずひさ)を正規の前とした乗る
 
== 略歴 ==
丸山胤道の次男として[[会津若松城]]下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校[[日新館]]に学び、[[南摩綱紀]]とともに秀才として知られた。[[1842年]]に[[江戸]]に遊学し、私塾や[[昌平坂学問所]]などで学び、また諸国を渡る。
 
藩主[[松平容保]]の側近として仕え、[[1862年]]に容保が幕府から[[京都守護職]]に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。遊学時代には薩摩へも渡ったことがあり、会津と[[薩摩藩]]が結託したんだ宮中クーデターである[[八月十八日の政変]]では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。佐幕派の反対を受け、1865年には左遷されて[[蝦夷地]]代官となる。
 
[[戊辰戦争]]で軍事奉行添役を命じられ、となり各地に出陣しているが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には使者[[手代木勝任]]とともに[[若松城|会津若松城]]務める脱出し[[米沢藩]]へ赴き、その協力を得て[[官軍]]首脳へ降服を申し出た。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり[[猪苗代]]において謹慎し、[[明治]]元年([[1868年]])には[[会津戦争]]の責任を問われ終身禁固刑となるが、明治5年([[1872年]])に特赦によって赦免される。同年新政府に[[左院]]省議として出仕し、[[第五高等学校 (旧制)|第五高等学校]]([[熊本大学]]の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では[[小泉八雲]]と同僚であった。晩年は[[東京]]に住み、明治33年([[1900年]])、74歳で死去。
 
小泉八雲は、秋月を称して「まるで神の様な人であった」と称し述べ
 
墓所は東京都港区の[[青山霊園]]。
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[[Category:福島県出身の人物]]
[[Category:日本の教育者]]
[[Category:熊本大学の教員]]
 
[[Category:1824年生]]