「ハイダマーカ」の版間の差分

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ハイダマーカが活躍した地域は[[キエフ]]地方、[[ヴォルィーニ]]地方、[[ポジーリャ]]地方であった。右岸ウクライナの人民のほかに、[[左岸ウクライナ]]のコサック、[[ドン・コサック]]、[[カルムィク人]]もしばしば蜂起には加わった。
 
ハイダマーカによる大きな蜂起は[[1734年]]、[[1750年]]と[[1768年]]に行われた。1768年の蜂起は[[コリーイの乱]](''{{lang|uk|Коліївщина}}'')と呼ばれ、ウクライナ語の「''{{lang|uk|колі́й}}''」(刺殺人、肉屋)に由来する。ウクライナの文学においてこの乱が美化され、[[自由]]を勝ち取る[[人民]]の象徴となった。一方、ポーランドやユダヤの文学においては、この乱が史上最悪の事件の一つとして捉えられている。文学の跡を引き継ぐウクライナ・ポーランド・ユダヤの研究史においてもハイダマーカの評価は正反対である。
 
ハイダマーカという用語は初めて史料に登場するのは[[1717年]]2月22日である。
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