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1939年3月、[[北海道]][[山越郡]]の漁師町・[[長万部町]]に生まれる。父は[[浄土真宗]]派の[[末寺]]の末男で農協職員。[[札幌郡]]厚別の信濃小学校、[[札幌市立柏中学校]]、[[北海道札幌南高等学校]]に進学。高校卒業までは、[[カール・マルクス|マルクス]]も[[レーニン]]も[[スターリン]]も[[毛沢東]]も知らぬ[[ノンポリ]]であった。1957年、[[東京大学]]の受験に落ち、その後一年間、浪人生活を送る。
 
1958年4月、東京大学教養学部に入学、三鷹寮に入る。同年12月に結成された[[ブント]]([[共産主義者同盟]])に加盟する。在学中の1959年から、教養学部で自治会委員長を務める。同委員長の選挙の際、西部はブントのメンバーたちとともに投票用紙を偽造してすり替え、共産党員の候補を落選させるというやんちゃな一面を見せる<ref>西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』文芸春秋、1986年、36-37頁。</ref>。また[[全日本学生自治会総連合|全学連]]の中央執行委員も務め、[[安保闘争|60年安保闘争]]に参加する。[[1961年]]3月、左翼過激派と決別する。[[1964年]]3月、 [[東京大学#経済学部|東京大学経済学部]]卒業。このころ西部は、やはりブントの活動家であった[[青木昌彦]]の勧めで [[東京大学#大学院|東京大学大学院]]に進み、[[経済学]]を専攻する。指導教官は[[嘉治元郎]]。1971年3月、[[東京大学#経済学研究科|東京大学大学院経済学研究科]]理論経済学専攻修士課程修了。[[横浜国立大学]]経済学部助教授、次いで[[東京大学#教養学部|東京大学教養学部]]助教授に就任する。経済学をはじめとする[[社会科学]]の細分化を一貫して批判する。1975年出版の処女作『ソシオ・エコノミックス』では[[社会学]]などの[[方法論]]を導入して旧来の経済学を批判する。経済行為の象徴的意味の解釈を志向する[[社会経済学]]の構築をめざし、注目された。その後渡米し、[[カリフォルニア大学バークレー校]]に在籍。引き続き渡英。『蜃気楼の中へ』という滞在記を発表した。帰国後、80年代から[[大衆]]社会批判を主軸とした[[保守]]論客として活躍をはじめ、各方面で発言を続ける。高度大衆社会・アメリカニズム批判と西欧流保守思想の提唱とを基軸にした評論活動を活発に行う。みずからも受賞したサントリー学芸賞の選考委員を長く委嘱される。1986年、東京大学教養学部教授(社会経済学専攻)に就任する。
 
[[1988年]]、[[中沢新一]]([[東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所]]助手)を東京大学教養学部助教授に推薦。委員会は通ったが[[教授会]]の採決のとき、一部の教官たちの妨害により否決される。同年3月、西部はこれに抗議して東京大学を辞職する([[東大駒場騒動]])。その後は評論家活動を続けるとともに、[[鈴鹿国際大学]]客員教授、秀明大学教授・学頭を歴任。[[新しい歴史教科書をつくる会]]に参加し理事の任を引き受けたものの、当初から会の運動とは一定の距離を置いており、理事会などへは出席しなかった。[[西尾幹二]]が[[台湾]]や[[金美齢]]を批判したことを巡って西尾との間で論争に発展した。[[台湾独立運動|台湾独立派]]の金美齢は「つくる会」に協力的だった。アメリカニズム、[[グローバリズム]]、そして[[近代主義]]への批判は従来から西部の思想の中心を占めていたが、[[アメリカ同時多発テロ事件]]以降の日本の親米知識人たちの[[アメリカ合衆国|アメリカ]]追従姿勢に対する批判は西尾や[[田久保忠衛]]らとの対立を招く。