「チカマウガの戦い」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m "Confederate_National_Flag_since_Mai_1_1863_to_Mar_4_1865.svg" を "Second_national_flag_of_the_Confederate_States_of_America.svg" に差し替え(Rocket000による。理由:None)
龍伯 (会話 | 投稿記録)
24行目:
 
== チカマウガ方面作戦初期の動き ==
北軍ローズクランズは[[1863年]]夏の[[タラホーマ方面作戦]]ではテネシー州[[マーフリーズボロ (テネシー州)|マーフリーズバラ]]から南東に動いて、わずか560名の損失だけでブラッグ軍をテネシー州チャタヌーガまで追い遣ることに成功した。チャタヌーガを占領できればジョージア州[[アトランタ]]やその先の南部中心を襲うためのドアが開かれるということだった。総司令官[[ヘンリー・ハレック]]はローズクランズに早く動いてチャタヌーガを取るようにせっついていた。[[エイブラハム・リンカーン]]大統領は「チャタヌーガを支配する者は戦争に勝利できる」と宣言した。チャタヌーガは南軍にとっても重要だった。その場所はルックアウト山、ミッショナリー・リッジ、ラクーン山およびストリンジャー・リッジに囲まれ戦略的重要さがあった。さらにチャタヌーガ鉄道中継点(北の[[ナッシュビル]]や[[ノックスビル (テネシー州)|ノックスビル]]に向かう線と南のアトランタに向かう線)であり、航行可能なテネシー川に沿っているので、金融、商業および製造(製鉄とコークス)の中心だった。
ローズクランズは数週間遅延したが、遂に[[8月16日]]に攻勢を再開し、南軍の南からの供給線を脅かすことでチャタヌーガから追い出そうと図った。その経路での大きな障害は[[テネシー川]]だった。ローズクランズはケイパートン・フェリーでの渡河をブラッグ軍から妨害されないように陽動作戦を工夫した。第二次チャタヌーガの戦いはその陽動作戦の一部だった。第14軍団のジョン・T・ワイルダー大佐がチャタヌーガ近くに1個旅団を移動させ、2週間に渡って市内を砲撃し、ブラッグに北軍が進軍する方向を分からないようにした。ローズクランズ軍は抵抗無しにテネシー川を渉った。そこで直面したジョージア州北西部の地形は厄介なものであり、ルックアウト山やミッショナリー・リッジと呼ばれる長く連なった岩だらけの山岳であり、そこの道路網はお粗末だった。