「フェリペ1世 (カスティーリャ王)」の版間の差分

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狩りやトーナメント(槍試合)が得意で、話術も巧みな美貌の「素敵な公子」(ボー・プランス、beau prince)だった。「フィリップ美公」という呼び名は死後つけられたとされるが、生前から美男子で目立っていたらしい。母マリーの死後、ブルゴーニュ公の称号(実際の所領は主に[[ネーデルラント]])を継承する。1496年に[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]女王[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル1世]]と[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フェルナンド2世 (アラゴン王)|フェルナンド2世]]の娘[[フアナ (カスティーリャ女王)|フアナ]]と結婚し、[[レオノール・デ・アウストリア|レオノール]]、カルロス(のちの[[神聖ローマ皇帝]]・スペイン王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世(カルロス1世)]]、[[イサベル・デ・アウストリア|イサベル]]、フェルナンド(のちの[[神聖ローマ皇帝]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]])、[[マリア・フォン・エスターライヒ|マリア]]、[[カタリナ・デ・アウストリア|カタリナ]]の2男4女が生まれる。
 
[[1504年]]、イサベル1世の死去を受けてフアナがカスティーリャの王位に就くと、妻との共同統治を主張して「カスティーリャ王フェリペ1世」を'''僭称'''する。しかし[[カトリック両王]]と敵対していた[[フランス王国|フランス]]に接近したり、[[フランドル]]の貴族たちにカスティーリャの土地を分け与えたりしたため、カスティーリャ国内の貴族達を敵に回し、全く支持を失ってしまう。[[1506年]]、[[ブルゴス]]でスポーツ球技んだ後ていて激しい吐き気に襲われ生水6日後あたり突然死去した( 生水にあたったとも、[[毒殺]]されたと言われ )。フィリップの死はフアナを動揺させ、精神疾患を引き起こしたと考えられている。
 
「美公」の異名通りフィリップはかなりの[[美男子]]で、浮気癖もひどかったと言われ、その生前からフアナには精神病の兆候が見られていたという。政治的には対立したフィリップとフアナであったが、6子が生まれていることから決して不仲ではなかったと察せられる。特にフアナの方はフィリップを熱愛していた。