「津軽信政」の版間の差分

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こうして成長した信政は、自らが藩政を取り仕切るようになると、津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大、[[野本道玄]]を招聘しての養蚕、織物、製糸業、[[紙漉]]の発展・育成などに努めた。民政においても善政を敷き、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げたのである。文化面においても、[[豊田雅一]]や[[渋江道陸]]ら40名にも及ぶ文化人を招聘して藩の文武発展に努めた。対外的には[[寛文]]9年([[1669年]])の[[シャクシャインの戦い|シャクシャインの蜂起]]鎮圧、[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])の日光山宮普請役などで功績を挙げている。
 
しかし晩年である[[貞享]]4年([[1687年]])、[[烏山藩]]主・[[那須資徳]](信政三男)の相続問題で幕府より叱責を受けたうえ、烏山藩[[那須氏]][[改易]]という、那須家[[御家騒動]]に巻き込まれる(武家の名門である那須家は、[[交代寄合]]1000石として存続)。
 
[[元禄]]8年([[1695年]])、藩内を襲った大飢饉で3万人以上の死者を出すなど、藩政にも行き詰まりが見え始める。元禄16年([[1703年]])にも[[播磨国]][[赤穂藩]]における旧浅野氏藩士処分などの失態事件を起こすなど、次第に信政自身にも老耄が見え始め、藩政は衰退の一途をたどった。このような中で宝永7年(1710年)10月18日、弘前にて死去し、後を次男の信寿が継いだ。享年65。
 
晩年は失態を重ねたが、それでも弘前藩の全盛期を築き上げた手腕は高く評価され、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主と言われている。
 
 
 
== 偏諱を与えられた人物 ==
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