「世阿弥」の版間の差分

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世阿弥が生まれたとき父である観阿弥は31歳で、[[大和猿楽]]の有力な役者であった。世阿弥の母については、近年発見された文書により「[[播磨国]]揖保庄の永富左衛門六郎の娘」という説もあるが不詳。観阿弥がひきいる一座は[[興福寺]]の庇護を受けていたが京都へ進出し、[[醍醐寺]]の7日間興行などで名をとどろかせた。世阿弥は幼少のころから父の一座に出演していた。
 
[[1374年]]または[[1375年]]、観阿弥が今熊野で催した猿楽(申楽)能に12歳の世阿弥が出演したとき、室町将軍[[足利義満]]の目にとまり、非常な寵愛を享けるようになった。以後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになった。[[1378年]]の祇園会では将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびている(「[[後愚昧記]]」)。[[1384年]]に観阿弥が没して世阿弥は観世太夫を継ぐ。
 
当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。世阿弥は観客である彼らの好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていったと考えられる。一般に猿楽者の教養は低いものだったが、世阿弥は将軍や貴族の保護を受け、教養を身に付けていた。特に摂政[[二条良基]]には[[連歌]]を習い、これは後々世阿弥の書く能や能芸論に影響を及ぼしている。
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