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;江戸時代前期~中期:男色文化全盛・庶民への広がり
江戸時代に入ると男色の道は、「若衆道」より取られた「衆道」と呼ばれ、また「若道」とも呼ばれた。[[陰間]]遊びが町人の間で流行し、日本橋の葭町は陰間茶屋のメッカとして繁栄した。衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、『[[東海道中膝栗毛]]』には喜多八はそもそも[[弥次郎兵衛]]の馴染の陰間であったことが述べられており、『[[好色一代男]]』には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。このように、日本においては[[近代]]まで男色は[[変態]]的な行為、少なくとも女色と比較して倫理的に問題がある行為とは全く見なされず、男色を行なう者は別に隠すこともていなかった。
 
;江戸時代後期~明治時代:男色文化は衰退へ