「隈丸次郎」の版間の差分

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隈丸が[[テニス]]を始めたきっかけは、[[佐藤次郎]]が[[1934年]][[4月5日]]に[[マラッカ海峡]]で投身自殺した新聞記事の号外だったという。しかし、彼の近くには専門のテニスコーチがいなかったため、技術解説専門書の日本語訳を読みながら独学でテニスを勉強した。[[1939年]]に初めて「全日本テニスランキング」11位に入り、[[1940年]]に7位、[[1941年]]には3位まで上昇した。その間に[[太平洋戦争]]が起こり、彼のテニス経歴も中断する。戦争は[[1945年]]8月に終結し、隈丸は終戦直後の日本男子テニス界を担う選手になった。
 
[[1949年]]から[[1952年]]まで、隈丸次郎は[[全日本テニス選手権]]の男子シングルスで前人未到の4連覇を達成した。これは今なお、全日本選手権男子シングルスの最多連覇記録として残っている。[[1949年]]と[[1950年]]の決勝戦では、隈丸は2年連続で[[藤倉五郎]]を破った。3連覇を目指した[[1951年]]の全日本テニス選手権には、終戦後最初の外国人選手の来日があった。[[アーサー・ラーセン]]は当時の世界ランキング9位であったが、前年の[[1950年]]に[[1950年全米テニス選手権 (テニス)|全米選手権]]男子シングルス優勝者になった選手である。隈丸と元全米王者ラーセンの決勝対決は、[[名古屋]]栄コートで行われた。隈丸はラーセンを 6-4, 6-3, 6-1 のストレートで圧倒し、大会3連覇を成し遂げた。最後の4連覇目、[[1952年]]の決勝戦の相手は[[加茂公成]]であった。彼は全日本選手権の男子ダブルスでも、[[1951年]]と[[1952年]]に2連覇を記録したが、1951年は来日したラーセンと組み、[[1952年]]は[[中野文照]]とのコンビで優勝した。
 
[[第二次世界大戦|第2次世界大戦]]の終戦後、日本が[[デビスカップ]]への復帰を認められたのは[[1951年]]になってからである。終戦後最初のデビスカップ遠征に際して、日本庭球協会は監督に[[熊谷一弥]]を指名し、日本代表選手には隈丸次郎、[[中野文照]]、[[藤倉五郎]]の3名が選ばれた。遠征地は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ケンタッキー州]][[ルイビル]]にある「ルイビル・ボートクラブ」であり、日本はアメリカ・チームと対戦した。日本チームは5戦全敗に終わり、隈丸はシングルス戦2試合で[[ハーバート・フラム]]と[[ディック・サビット]]に敗れた。翌[[1952年]]のデ杯では、隈丸自身が日本チームの主将を務め、中野と[[宮城淳]]の3名で対アメリカ戦に出場した。[[オハイオ州]][[シンシナティ]]にある「シンシナティ・テニスクラブ」への遠征では、隈丸はシングルス第1試合でラーセンに 2-6, 6-3, 3-6, 2-6 のスコアで敗れた。第3試合のダブルス戦では、隈丸と中野のコンビは[[ガードナー・ムロイ]]&[[ビル・タルバート]]組に敗れている。隈丸の2年間のデビスカップ代表歴は「4戦全敗」に終わったが、その後[[1957年]]と[[1958年]]の2年間デビスカップ日本監督を務め、終戦後の日本テニス界の復興に大きく貢献した。
== 外部リンク ==
* [http://www.jta-tennis.or.jp/memorables/003.html 思い出に残るあの試合] (2003年、[[日本テニス協会]]によるインタビュー)
* {{Davis Cup|10003839|隈丸次郎}}
* [http://www.daviscup.com/teams/player.asp?player=10003839 デビスカップ成績表]
== 参考文献 ==
* [[日本テニス協会]]発行『テニス・プレーヤーズ・ガイド』 2006年版(101・178ページを参照)
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