「クリオーリョ」の版間の差分

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== 語源 ==
  ”criollo”という単語は”criar”(育てる)という動詞から派生しており、「現地で育った」ことを意味していた。したがって、白人だけでなく黒人でも、アメリカ大陸生まれの場合には"negro criollo"(現地生まれの黒人)と表現され、アフリカ大陸生まれの黒人(”negro bozal”, "negro africano")と区別されていた。さらに動植物に関しても”criollo”という形容詞が付加されることもあった。<br />
  ポルトガル語圏であるブラジルの場合は、"crioulo"は一般的に「現地生まれの黒人」を指す呼称である。<br />
  これに対して、スペイン領アメリカにおいては、現地生まれの白人を"criollo"と呼ぶ用法は、すでに植民地時代初期から観察されるが、とくに18世紀になる頃には、”criollo”=「アメリカ大陸生まれの白人」という結びつきが一般的になった。<br />
 
== スペイン領アメリカにおけるクリオーリョの社会的位置づけ ==
  「クリオーリョ」の対義語には、「ペニンスラール」(「半島人」、イベリア半島で生まれた白人)、「エウロペオ」(「ヨーロッパ人」)などの表現が相当する。しかし、両者は婚姻、親族、親子などの関係にあるため、明確に区別される二つの集団を構成しているわけではない。両者を含めた「白人」が、植民地社会では支配集団を構成していた。その支配下には黒人や先住民に加え、[[メスティーソ]](白人と[[インディオ|先住民]]との[[混血]])、[[ムラート]]([[ネグロイド|黒人]]と白人との混血)、[[サンボ]](黒人と先住民との混血)などの混血集団が位置する。<br />
  しかし、こうした肌の色に基づいて身分(スペイン語:casta)が区別される社会のありかたは次第に効力を失っていき、18世紀が進むに連れて社会経済的要因によって階層区分が生じる社会へと移行していった。すなわち、ヨーロッパ出身のスペイン人(ペニンスラール)であれ、クリオーリョであれ、資産があったり、有力者との縁戚関係がある人々は社会的に上層に位置することができるいっぽうで、金も縁もない人々が社会的には中位・下位に位置するような社会が成立しつつあった。<br />
 
== クリオーリョとペニンスラールの対立 ==
  以上のような観点からしたがって、クリオーリョは白人してペニンスラールを別個の集団と考ることも同一『有色人種』に対して優越した支配集団に属て一括りにすることも、18世紀になると簡単にはできなくなっていた。しかし、こうした社会の中における位置づけとは別の次元で、クリオーリョとペニンスラールの間にはいくつかの亀裂も存在し、それがやがて両者の対立を深めていく原因にもなった。<br />
  すなわち、ペニンスラールの中には、ヨーロッパ生まれの人間こそが優位であり、アメリカ生まれの人間は体格や知性で劣る、とする素朴な感情、あるいはその感情を基盤にした疑似科学的な言説を信奉するものが少なからず存在した。そうした偏見に基づいたペニンスラールの言動は、時にはクリオーリョの感情を害し、さらには彼らの活動の妨げになることもあったため、クリオーリョの間にペニンスラールに対する反感を醸成する一助となった。<br />
  また、18世紀に実施されたさまざまな行政改革(ブルボン朝改革)は、本国王室の意図や命令が植民地社会で迅速に実施されることを企図したものであり、その実現に当たってはクリオーリョよりもペニンスラールが重用された。こうした政治領域に於けるペニンスラール優遇策も、クリオーリョとペニンスラールの間の亀裂を拡大させた。<br />
  以上のように、同じイベリア人でありながら新大陸で生まれたという事だけで[[差別]]を受けたことは、クリオーリョたちにペニンスラール及び本国政府への反感を抱かせ、この反感が[[独立運動]]の動機のひとつになった。<br />
 
<!--スペインの各植民地とポルトガルのそれとの相違点-->