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'''松平 宗昌'''(まつだいら むねまさ)は、江戸時代の大名。[[越前松岡藩]]の第2代藩主。越前[[福井藩]]の第9代藩主<ref>一般には福井藩第3代と数える[[松平忠昌]]以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第7代となる。</ref>。越前松岡藩初代藩主[[松平昌勝]]の三男。母は中根氏(葉津)。正室は水戸支流[[松平頼元]]の娘([[小笠原忠雄]]の養女)・菊姫。側室に杉山氏。子に勝姫([[毛利宗広]]正室)。官位は従四位下、侍従。
 
 
== 経歴 ==
 
延宝3年(1675年)6月23日、松岡で生まれる。幼名は仙鉄。[[元禄]]6年([[1693年]])、最初は'''昌興'''と名乗る。父の死去により松岡藩を継ぐ。このときの名乗りは'''昌平'''(まさひら)である。[[享保]]6年([[1721年]])に本家の藩主となっていた弟の[[松平吉邦]]が嗣子無くして死去したため、その後を継いだ。このとき、松岡藩は本家に併合されて廃藩、福井藩は合計30万石となった。第8代将軍[[徳川吉宗]]より一字を拝領して'''宗昌'''と改名する。
 
40代半ばを過ぎての本藩就任であり、当時としては既に跡継ぎを望むには高齢で、かつ後継者がなかったことにより、藩主就任と同時に幕府の指示により越前松平氏一族(前橋松平家)の[[松平宗矩]]を養嗣子とする。名門福井藩に相次いだ福井藩の当主後継を巡るお家騒動に対するの再発を防ぐための、幕府の事前措置と思われる。宗矩は先代藩主・吉邦の一人娘を正妻に迎える。享保9年(1724年)4月27日、宗昌は江戸で死去し、後を[[松平宗矩|宗矩]]が継いだ。享年50。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[虎ノ門]](西ノ窪)の天徳寺。のち東京都[[品川区]]南品川の海晏寺に改葬。
 
== 脚注 ==