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'''ギルバート・ニュートン・ルイス'''('''Gilbert Newton Lewis''', [[1875年]][[10月23日]] - [[1946年]][[3月24日]])は、[[アメリカ合衆国]][[マサチューセッツ州]][[ウェイマス]]出身の[[化学者]]。[[ネブラスカ大学]]で3年学んだ後に[[ハーバード大学]]でも学んだ。
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'''ギルバート・ニュートン・ルイス'''('''Gilbert Newton Lewis''', 1875年10月23日 - 1946年3月24日)は、[[アメリカ合衆国]]の[[物理化学]]者。[[共有結合]]の発見([[化学式#電子式|ルイスの電子式]])、[[重水]]の単離、[[化学熱力学]]を数学的に厳密で普通の化学者にも馴染める形で再構築、[[酸と塩基#ルイスの定義|酸と塩基の定義]]、[[光化学]]実験などで知られている。1926年、放射エネルギーの最小単位を "photon"([[光子]])と名付けた。化学の専門家の[[フラタニティとソロリティ|フラタニティ]] [[:en:Alpha Chi Sigma|Alpha Chi Sigma]] のメンバーだった。長く教授を務めたが、中でも[[カリフォルニア大学バークレー校]]に最も長く在籍した。
 
== 前半生 ==
[[熱力学]]の分野において[[活量]]や[[フガシティー]]を考え出すという成果を残したほか、[[酸と塩基|酸・塩基の定義]]を作った。[[カリフォルニア大学バークレー校]]の教授。
[[マサチューセッツ州]][[ウェイマス]]で生まれ育った。現在のウェイマスには G.N. Lewis Way と名付けられた通りがある。[[ネブラスカ大学]]で3年学んだ後、[[ハーバード大学]]で[[セオドア・リチャーズ]]に師事して博士号を取得。1年間ハーバード大学で講師を務めた後、[[ライプツィヒ]]で物理化学者[[ヴィルヘルム・オストヴァルト]]に学び、[[ゲッティンゲン]]で物理学者[[ヴァルター・ネルンスト]]に学んだ<ref>{{cite journal|last=Edsall|first=J. T. |year=1974|month=November|title=Some notes and queries on the development of bioenergetics. Notes on some "founding fathers" of physical chemistry: [[ウィラード・ギブズ|J. Willard Gibbs]], [[ヴィルヘルム・オストヴァルト|Wilhelm Ostwald]], [[ヴァルター・ネルンスト|Walther Nernst]], Gilbert Newton Lewis|journal=Mol. Cell. Biochem.|volume=5|issue=1-2|pages=103–12| pmid = 4610355|doi=10.1007/BF01874179 }}</ref>。ネルンストの研究室にいたころ両者の間に亀裂が生じ、生涯憎しみあうようになった。ネルンストの友人 Walther Palmaer はノーベル化学賞選考委員だった。彼がその地位を利用して[[熱力学]]でノミネートされたルイスのノーベル賞受賞を3度阻止した証拠がある<ref>{{Harvnb|Coffey|2008|pp=195-207}}</ref>。
 
その後ハーバードに講師として戻って3年間過ごし、1904年に[[フィリピン]]の科学局の度量衡部門の管理者の職を得て[[マニラ]]に赴く。翌年[[マサチューセッツ工科大学]] (MIT) に教職員として採用され、[[マサチューセッツ州]][[ケンブリッジ (マサチューセッツ州)|ケンブリッジ]]に移った。MITでは[[アーサー・エイモス・ノイズ]]率いる優秀な物理化学者グループの一員となった。1907年に助教授、1908年に準教授、1911年に正教授となった。1912年、MITを離れ[[カリフォルニア大学バークレー校]]の教授兼化学部長となった。バークレー校には1948年にルイスの名を冠したホールが建てられた。
 
== 研究 ==
[[ファイル:Cubical atom 2.svg|thumb|right|350px|立方体原子模型の例]]
1902年ごろ、ルイスは講義ノートに未発表の[[立方体原子模型]]を描き始めている。立方体の各頂点が[[電子]]のとりうる位置を表した[[原子模型]]である。1916年の化学結合についての論文で初めてこの考え方を公表した。
 
1908年、[[相対性理論]]についての論文をいくつか発表。その中で[[質量]]と[[エネルギー]]の関係を[[アルベルト・アインシュタイン]]とは異なる形で導出した<ref>{{Cite journal|author=Lewis, G. N.|year=1908|title=[[s:en:A revision of the Fundamental Laws of Matter and Energy]]|journal=Philosophical Magazine|volume=16|pages=705–717|postscript=<!--None-->}}</ref>。1909年、[[リチャード・トールマン]]と共にその手法を[[相対性原理|特殊相対性理論]]と結合させた<ref>{{Cite journal |author=Lewis, G. N. & [[:en:Richard C. Tolman|Richard C. Tolman]] |year=1909 |title=[[s:en:The Principle of Relativity, and Non-Newtonian Mechanics]] |journal=Proceedings of the American Academy of Arts and Sciences |volume=44 |pages=709–26|postscript=<!--None-->}}</ref>。1912年、[[:en:Edwin Bidwell Wilson|Edwin Bidwell Wilson]] と共に幾何学を[[時空]]に応用するだけでなく、時空の [[:en:squeeze mapping|squeeze mapping]] や[[ローレンツ変換]]の同一性に注目した数理物理学の重要な論文を発表した<ref>Edwin B. Wilson & Gilbert N. Lewis (1912) "The Space-time Manifold of Relativity. The Non-Euclidean Geometry of Mechanics and Electromagnetics" Proceedings of the [[アメリカ芸術科学アカデミー|American Academy of Arts and Sciences]] 48:387-507</ref><ref>[http://www.webcitation.org/5koAax8ct Synthetic Spacetime], a digest of the axioms used, and theorems proved, by Wilson and Lewis. Archived by [[:en:WebCite|WebCite]]</ref>。
 
[[熱力学]]の分野においては[[活量]]の概念を生み出し、"fugacity"([[フガシティー]])という用語を作った<ref>(1908) "The osmotic pressure of concentrated solutions, and the laws of the perfect solution," ''J. Am. Chem. Soc.'' '''30''': 668-683.</ref>。
 
1912年6月21日、ハーバード大学の[[ロマンス諸語]]の教授の娘と結婚。息子2人と娘1人をもうけ、後に息子は2人とも化学の教授になった。
 
1913年、[[米国科学アカデミー]]会員に選ばれたが、1934年に辞任した。辞任理由は語っていないが、アカデミー内の政争や何らかの地位に任命されなかったことが原因と見られている。辞任を決意させた出来事として、1934年の[[ノーベル化学賞]]を教え子だった[[ハロルド・ユーリー]]が[[重水素]]の発見で単独で受賞したことが挙げられる。ルイスは重水素発見の元となった[[重水]]の精製と性質の研究をしており、教え子が受賞するなら自分の研究も受賞に値すると感じていた<ref>{{Harvnb|Coffey|2008|pp=221-22}}</ref>。
 
1916年、化学結合についての古典的論文 "The Atom and the Molecule"<ref>[http://osulibrary.oregonstate.edu/specialcollections/coll/pauling/bond/papers/corr216.3-lewispub-19160400.html Lewis G.N. J.Amer.Chem.Soc. vol.38, no.4(1916) The Atom and the Molecule]</ref>を発表し、その中で後に[[共有結合]]と呼ばれることになる[[電子]]の対を原子間で共有する化学結合の考え方を定式化している。また、[[不対電子]]を持つ[[ラジカル (化学)|ラジカル]]を "odd molecule" と定義した。この論文には[[化学式#電子式|電子式]]の記法や立方体原子模型も含まれていた。これらの[[化学結合]]についての考え方を[[アーヴィング・ラングミュア]]がさらに発展させ、[[ライナス・ポーリング]]の化学結合の研究に着想を与えることになった。
 
1919年、[[液体]][[窒素]]中に[[酸素]]を溶かした溶液の[[磁性]]を研究し、O<sub>4</sub> 分子が形成されていることを発見した。これが[[四酸素]]の世界初の証拠となった。
 
[[強電解質]]が[[反応速度論#質量作用の法則]]に従わないことは20年間、物理化学の難題とされていたが、ルイスは1921年にそれを説明付ける経験式を初めて提案した。彼が[[イオン強度]]と称した経験式は、1923年に発表された強電界質の[[デバイ-ヒュッケルの式]]と合っていることが確認された。
 
1923年、電子対に着目した[[酸と塩基]]の定義を発表。「ルイス酸」は電子対を受け取る物質、「ルイス塩基」は電子対を供与する物質と定義された。同年、化学結合についての学術論文を発表<ref>Lewis, G. N. (1926) ''Valence and the Nature of the Chemical Bond''. Chemical Catalog Company.</ref>。
 
[[ウィラード・ギブズ]]により、化学反応が[[平衡]]にまで進むかどうかは関与する物質の[[自由エネルギー]]によることがわかっていた。ルイスは25年の歳月を費やして様々な物質の自由エネルギーを特定していった。1923年、[[:en:Merle Randall|Merle Randall]] と共にその成果を発表<ref>Lewis, G. N. and [[:en:Merle Randall|Merle Randall]] (1923) ''Thermodynamics and the Free Energies of Chemical Substances''. McGraw-Hill.</ref>。これが現代の化学[[熱力学]]の確立に大きな役割を果たした。
 
1926年、放射エネルギー(光)の最小単位を表す "photon"([[光子]])という言葉を作った。[[ネイチャー]]誌に送った手紙の中に記されていたのだが<ref>{{cite journal | author = Lewis, G.N. | title = The conservation of photons | journal = [[ネイチャー|Nature]] | year = 1926|url= http://www.nature.com/nature/journal/v118/n2981/abs/118874a0.html | volume = 118 | pages = 874–875 | doi = 10.1038/118874a0}}</ref>、その後の展開は彼の意図したものとは違っていた。手紙の中で彼は[[エネルギー]]の単位としてではなく構造要素として[[光子]]を提案し、「光子数」を新たな変数とする必要性を強調している。1905年に[[アルベルト・アインシュタイン]]が提唱した「光の量子論」とは異なる理論だったが、"photon" という用語はアインシュタインが「光量子」(ドイツ語では Lichtquant)と呼んだものと同義に扱われることになった。
 
1933年、史上初の純粋な[[重水]](酸化重水素)の精製に成功<ref>{{Cite doi|10.1063/1.1749300}}</ref>。重水中で生命が生存し成長できることを初めて研究した<ref>{{cite doi|10.1021/ja01335a509}}</ref><ref>{{cite doi|10.1126/science.79.2042.151}}</ref>。[[アーネスト・ローレンス]]の[[サイクロトロン]]で重陽子([[重水素]]の[[原子核]])を加速する実験を行い、原子核の様々な特性を研究した{{要出典|date=2009年11月}}。
 
1930年代には後に[[ノーベル賞]]を受賞した[[グレン・シーボーグ]]を指導した。
 
== 晩年と死 ==
これまでに挙げた以外にもルイスは様々な主題について論文を発表しており、[[光]]量子の性質から価格安定性のような[[経済学]]まで広範囲に渡っている。
 
晩年には、最後の教え子 [[:en:Michael Kasha|Michael Kasha]] と共に[[有機分子]]の[[燐光]]が[[三重項状態]](通常、[[スピン角運動量|スピン]]が逆向きのはずの電子対が励起されて同じ向きのスピンになった状態)によるものだと解明し、三重項状態の磁気特性を測定した<ref>[http://pubs.acs.org/doi/abs/10.1021/ja01240a030 G.N. Lewis and M. Kasha, J. Amer. Chem. Soc. 66, 2100-2116(1944)] Phosphorescence and the Triplet State</ref>。
 
1946年、ルイスがバークレーの研究室で死んでいるのを大学院生が発見した。液体[[シアン化水素]]を使った実験をしていて、極めて毒性の強い気体が室内に漏れ出していた。検死官は死因を冠状動脈の異常としたが、自殺だと信じる者もいた。バークレーの名誉教授 William Jolly は1987年にバークレーの化学部門の歴史を描いた ''From Retorts to Lasers'' を出版したが、その中で学部の上層部がルイスの死を自殺だと思っていたと記している。
 
ルイスが亡くなった日、[[アーヴィング・ラングミュア]]とルイスが昼食を共にしていたことを Michael Kasha が数年後に思い出した<ref>{{Harvnb|Coffey|2008|pp=310-15}}</ref>。ルイスとラングミュアは長年のライバル関係にあり、それはラングミュアがルイスの化学結合理論を発展させたころから続いていた。ルイスが何度もノーベル賞候補といわれながら受賞を逃してきたのに対して、ラングミュアは1932年にノーベル化学賞を受賞している。昼食から戻ってきたルイスは暗かったという証言もある。彼が死んでいるのを発見されたのはその数時間後だった。[[アメリカ議会図書館]]にあるラングミュアの論文から、その日ラングミュアが名誉学位を受け取るためにバークレー校にいたことが確認されている。
 
== 脚注・出典 ==
{{Wikisource author|Gilbert Newton Lewis}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation |last=Coffey |first=Patrick |year=2008 |title=Cathedrals of Science: The Personalities and Rivalries That Made Modern Chemistry |publisher=Oxford University Press |isbn=978-0-19-532134-0}}
* Eric Scerri, The Periodic Table, Its Story and Its Significance, Oxford University Press, 2007, see chapter 8 especially
 
== 外部リンク ==
* [http://www.chemheritage.org/classroom/chemach/chemsynthesis/lewis-langmuir.html Gilbert Newton Lewis (1875–1946) and Irving Langmuir (1881–1957)] - Chemical Achievers
* [http://osulibrary.oregonstate.edu/specialcollections/coll/pauling/bond/people/lewis.html Key Participants: G. N. Lewis] - ''Linus Pauling and the Nature of the Chemical Bond: A Documentary History''
 
{{DEFAULTSORT:るいす きるはあと}}
[[Category:アメリカ合衆国の化学者]]
[[Category:物理化学者]]
[[Category:マサチューセッツ州の人物]]
[[Category:1875年生]]
[[Category:1946年没]]
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[[ca:Gilbert Newton Lewis]]