「フェルディナント・ポルシェ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
35行目:
[[1933年]]に、ドイツの覇権を握った[[独裁者]][[アドルフ・ヒトラー]]から国民車([[ドイツ語]]でフォルクスワーゲン)の設計を依頼された。ようやく理想の小型大衆車開発を実現したポルシェは、3年後の[[1936年]]には流線型ボディ・空冷リアエンジン方式の1000cc試作車を完成、[[1938年]]には計画通りの量産化に着手している。この際、車名はヒトラーにより「Kdf」(歓喜力行車)とされた。後の[[フォルクスワーゲン・タイプ1|フォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)]]である。
 
またこれと並行し、やはりヒトラーの後援を受けた[[アウトウニオン]]社の依頼で、ミッドシップ方式のレーシングカー「Pヴァーゲン」を1934年に開発。同時期に開発されたライバル「メルセデス・ベンツW25」シリーズと並ぶ高性能レーサーであり、両車はヨーロッパの多くのレースを席巻した。[[1938年]]には[[ノーベル賞]]に対抗してナチス・ドイツが制定した「[[ドイツ芸術科学国家賞]]」を受賞する
 
フォルクスワーゲンとアウトウニオン・レーサーは、いずれもポルシェの開発能力だけでは成立し得ず、ヒトラーの意向による国家的後援があっての存在であった。廉価で高性能なフォルクスワーゲンはヒトラーが大衆政策として開発を指示したものであり、銀色のアウトウニオンは、国威発揚のための宣伝の具であった。これらのモデルのそれ以上の発展や活躍は、他ならぬヒトラー自身によって引き起こされた[[第二次世界大戦]]で頓挫を余儀なくされ、ポルシェもまた戦時体制に巻き込まれて行くことになる。