「エンリケ4世 (カスティーリャ王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
2010年12月1日 (水) 16:58の版に差し戻し
3行目:
 
==生涯==
エンリケは15歳のとき、[[アラゴン王国|アラゴン]]王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]]と[[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[ブランカ1世 (ナバラ女王)|ブランカ1世]]の王女で母方の従姉の[[ブランカ2世|ブランカ]]([[1424年]] - [[1464年]])と結婚した。しかしエンリケは新婚初夜はおろか、その後も全く彼女に対して[[性交渉]]を求めなかった。13年後にエンリケが離婚を求めたとき、公式の検査でブランカの[[処女]]が確認された。聖職者たちは[[セゴビア]]の[[売春婦]]に対してエンリケが性的不能ではないことを確認し、[[教皇|ローマ教皇]]も結婚が何らかの「魔法」によって妨げられたとして離婚を承認した。ブランカは実家に送られて収監され、のちに[[毒殺]]された。
 
[[1454年]]、エンリケは父王フアン2世の死去を受けて王位に即いた。
 
[[1455年]]、[[ポルトガル王国|ポルトガル]]王[[ドゥアルテ1世 (ポルトガル王)|ドゥアルテ1世]]と王妃[[レオノール・デ・アラゴン (ポルトガル王妃)|レオノール]]の王女で自身にも先妻にも従妹にあたる[[フアナ・デ・ポルトゥガル|フアナ]]と結婚した。エンリケ4世は彼女に対しても手を出さなかったため、子供をもうけるため[[人工授精]]が行なわれて王女フアナが生まれた。しかし王妃フアナは愛人ベルトラン・デ・ラ・クエバ(<span lang="es">Beltrán de la Cueva</span>)を連れ込んでいたため、王女は[[フアナ・ラ・ベルトラネーハ]]と呼ばれるようになった。<!--Townsend Miller(誰?)は、彼女の父親が誰であるかは判らないとしている。-->王女フアナの王位継承者の資格についての疑問、王の柔弱、王妃の不義、貴族たちの台頭は、エンリケ4世の死後の紛争の火種となった。
実際エンリケ4世は[[寵臣]]ベルトラン・デ・ラ・クエバら青年たちと睦まじい関係にあったと言われている。
 
[[1474年]]、エンリケ4世は[[マドリード]]で死去した ( 宴席で急に腹痛を訴えて死んだため[[毒殺]]と噂された ) 。それを受け、アラゴン王太子妃となっていたエンリケ4世の異母妹[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]とポルトガル王妃となったフアナはともに即位を宣言した。イサベル支持派とアラゴンの連合軍はフアナ支持派とポルトガルの連合軍を破り、イサベルが王位を嗣いだ。
 
== 関連項目 ==
[[対立王]]'''アルフォンソ12世''' ( [[アルフォンソ・デ・カスティーリャ]] ) (在位:1465年 - 1468年)。 
 
 
 
 
[[1474年]]、エンリケ4世は[[マドリード]]で死去した ( 宴席で急に腹痛を訴えて死んだため[[毒殺]]と噂された ) 。それを受け、アラゴン王太子妃となっていたエンリケ4世の異母妹[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル]]とポルトガル王妃となったフアナはともに即位を宣言した。イサベル支持派とアラゴンの連合軍はフアナ支持派とポルトガルの連合軍を破り、イサベルが王位を嗣いだ。
 
{{カスティーリャ王|1454-1474}}