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== 生い立ち ==
シュペルレは、[[1885年]]2月2日に[[ルートヴィヒスブルク]]([[:de:Ludwigsburg|Ludwigsburg]])で生まれる。[[1903年]]、士官候補生として第8ヴュルテンブルク歩兵連隊に入隊し、翌年には[[少尉]]に任官した。
[[第一次世界大戦]]が勃発する前年の[[1913年]]に中尉に昇進した。
 
== 第一次世界大戦 ==
第一次世界大戦が勃発した[[1914年]]末に大尉へ進級した。
この年シュペルレは、砲撃弾着観測将校の訓練を受け、偵察将校として第4野戦飛行分遣隊に配属される。その後、操縦訓練を受け、第42野戦飛行分遣隊、第13野戦飛行団の指揮官を歴任した後、航空観測学校の校長に転じ、大戦終結時には、[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]の第7軍に配属された全ての航空部隊の指揮官となっている。
 
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[[第一次世界大戦]]後は、[[ヴェルサイユ条約]]で兵力10万人に制限された[[ヴァイマル共和政|ヴァイマル共和国]]の陸軍([[:de:Reichsheer|Reichsheer]])に選び残された。
 
航空将校から歩兵将校に戻ったシュペルレは、[[1919年]]から[[1923年]]に掛け第5軍管区の幕僚を勤めた後、翌1924年まで国防省で勤務した。その後、[[1924年]]まで[[ドレスデン]]の第4歩兵師団に配属された。
[[1925年]]国防省に幕僚として戻り、[[1928年]]には、[[ソビエト連邦|ソ連]]のリペックにあるドイツの秘密基地に送られ、高等操縦訓練を受けた。[[1929年]]まで国防省の幕僚勤務した後、第14歩兵連隊第III大隊長に転じ、[[1926年]][[少佐]][[1931年]][[中佐]]へ進級した。
 
[[1934年]]4月1日、当時まだ秘密の存在であった[[ドイツ空軍]]([[ドイツ航空省]])に[[大佐]]として入営し、第1飛行師団長に補された。また兼任で陸軍飛行隊司令官も勤めた。
 
[[1935年]]3月16日、[[アドルフ・ヒトラー]]は、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄、[[ドイツ再軍備宣言|再軍備宣言]]をし、ドイツ空軍の存在を世界に公表した。これに伴い、正式に陸軍から空軍へ移籍され、第2航空管区司令官となりる。同年10月には少将へ進級し、[[ミュンヘン]]の第V航空管区司令官に転任した。
 
[[1936年]]7月[[スペイン内戦]]が勃発すると、[[フランシスコ・フランコ]]将軍率いる国民戦線軍を支援するため組織された、[[コンドル軍団]]の初代司令官としてスペイン内戦に従軍した。
 
== 第二次世界大戦 ==
[[File:Hugo-Sperrle.jpg|200px|thumb|ニュルンベルク裁判の被告席に座るシュペルレ。]]
第二次世界大戦が勃発した[[1939年]]9月には、西部国境地帯で[[第1航空艦隊 (ドイツ空軍)|第3航空艦隊]]の司令官としてドイツ南西部の防空に当たり、翌年の[[フランス]]他、西方諸国をめぐる戦いで同航空艦隊を指揮し、その功によりフランス降伏後の7月19日、[[ベルリン]]の[[オペラハウス]]で[[エアハルト・ミルヒ]]、[[アルベルト・ケッセルリンク]]と共に空軍[[元帥]]に任じられた。
 
[[1940年]]8月13日、[[バトル・オブ・ブリテン]]におけるドイツ空軍の攻勢作戦”鷲の日”においても、引き続き第3航空艦隊を指揮し、[[ドーバー海峡]]と[[イングランド]]南東部の制空権をほぼ掌握した。しかし、ヒトラーと[[ゲーリング]]の作戦目的転換により、作戦は失敗に終わった。
その後も、フランスで同航空艦隊の司令官を勤めたが、[[1944年]]6月の[[ノルマンディー上陸作戦]]におけるドイツ空軍の敗退で、その責任を問われ8月19日に司令官の職を解任される。
 
1945年5月1日、[[イギリス軍]]に逮捕され、[[ニュルンベルク継続裁判]]の1つ[[国防軍最高司令部裁判]]の被告にされたが、1948年10月27日、無罪の判決を受けた。[[1953年]]、[[ミュンヘン]]で死去。