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'''上杉 朝房'''(うえすぎ ともふさ、生年不詳 - [[1391年]]([[元中]]8年/[[明徳]]2年)?)は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。父は[[上杉憲藤]]([[上杉氏#犬懸上杉家|犬懸上杉氏]])。妻は[[上杉憲顕]]([[山内上杉家|山内上杉氏]])の娘。弟に[[上杉朝宗]]。官位は左馬助、中務大少輔、弾正少弼。
 
幼名は幸松丸。通称は上杉三郎。[[1338年]]、父の憲藤が[[摂津国]]で戦死したとき、幼少だったために弟の[[上杉朝宗]](幸若丸)と共に家臣の[[石川覚道]]に養育された。[[1364年]]、[[上総国]]の[[守護]]に任じられ、[[1366年]]には[[信濃国]]の[[守護]]に任じられる。[[1368年]]9月、[[上杉能憲]]と共に[[関東管領]]に任じられ、能憲と共に「両管領」と称されて幼少の[[足利氏満]]を補佐した。[[1370年]]下命に抵抗する[[善光寺]]別当の[[栗田氏]]をその居城[[栗田城]]に攻めるが退けられたこともあって8月には管領職を辞表を提出した。通説ではこれをもって辞任とするが、実際に辞任が認められた時期ことを示す記録史料存在しないためその後も関東管領の任にあった可能性がある。その後、一旦京都に上り、[[1374年]]には鎌倉に戻っているものの、[[1376年]]には兼務していた上総国の守護を朝宗に譲り、[[1377年]]には信濃の国務に関する室町幕府の命令を京都で直接受けていることが判明しており、この時には京都に滞在していたとみられている<ref>小国浩寿は上杉憲春が1377年に関東管領に就任した説を否定して、同年段階では朝房の管領辞任は認められていなかったために、上杉能憲の病気にも関わらず憲春は当時定員が2名であった関東管領には就任できずその職務を代行するに止まり、翌年の能憲の死によって正式な関東管領に就任したとする説を唱えている。</ref>。1391年に[[京都]]にて死去したと言われているが、没年には異説が多い。法号は常真得元。
 
== 脚注 ==