「ドランド・ピエトリ」の版間の差分
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陸上選手テンプレート追加、オリンピックの成績、外部リンクなど追加。 |
参考文献を元に身長体重、生涯成績など加筆。 |
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| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1885|10|16|1942|2|7}}
| 死没地 = イタリア共和国[[リグーリア州]][[インペリア県]][[サンレーモ|サンレモ]]
| 身長 = 159cm
| 体重 = 60kg
| 自己ベスト = マラソン:2時間38分48秒2(1910年)
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ピエトリは世界的な有名人となった。作曲家の[[アービング・バーリン]]からは「ドランド」という歌をプレゼントされ、また、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で行われるエキシビションレースに参加するよう求められた。1908年11月に[[ニューヨーク]]の[[マディソン・スクエア・ガーデン]]で、ヘイズとピエトリが対決するレースがセットされた。このレースではピエトリが勝ち、また同じようなレースが翌年の3月にも行われた。ピエトリは、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]での興行で行われた22レース中17回で勝利した。
ピエトリは、1909年5月に[[イタリア]]に戻り、プロのランナーとして活動することとなった。そしてさらに2年間外国で活動することとなった。彼の最後のマラソンは、1910年5月に[[ブエノスアイレス]]で行われたレースで、ここで2時間38分48秒2の自己ベストを達成している。なお、彼は現役生活中に合計で17回マラソンに出場し、優勝8回、2位1回、6位1回、棄権6回、失格1回の成績を残した。
ピエトリの[[イタリア]]での最後のレースは1911年9月に[[パルマ]]で行われた15kmのレースである。ここでも勝利している。彼の本当に最後となったレースは1911年10月に[[イェーテボリ]]で行われたレースであった。彼は3年間プロとして活躍する間に、20万リラという当時としては破格の賞金を稼ぎあげた。
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== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* ロベルト・L・ケルチェターニ『近代陸上競技の歴史-1860-1991 誕生から現代まで(男女別)』 日本陸上競技連盟監修、[[ベースボールマガジン社]]、1992年、27 - 29頁。
== 関連項目 ==
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== 外部リンク ==
* [http://www.sports-reference.com/olympics/athletes/pi/dorando-pietri-1.html Dorando Pietri Olympics at Sports-Reference.com]{{En icon}}
{{DEFAULTSORT:ひえとり とらんと}}
[[Category:イタリアの陸上競技選手]]
[[Category:イタリアのオリンピック選手]]
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