「民主党 (韓国 1991-1995)」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1990年]][[2月]]に当時の[[盧泰愚]]政権の[[与党]]である[[民主正義党]]と野党の[[統一民主党]](元民主党)・[[新民主共和党]]の3党が合同して[[国会 (大韓民国)|国会]]の4分3を優に超える巨大与党の「[[民主自由党 (韓国)|民主自由党]]」(民自党)が発足して以降、第1野党である平和民主党(平民党)と、3党合同に参加しなかった元民主党議員と無所属議員<ref>[[1987年]][[12月]]の[[1987年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]において[[金泳三]]と金大中候補の単一化(一本化)を求めて所属政党から離党した議員で「署名派」と呼ばれていた。</ref>が同年6月に結成した第2野党の民主党との間で野党勢力統合に向けた動きが進められ、一度は統合新党を作ることで合意に達していたが、民主党側が[[金大中]]平民党総裁の第1線からの後退(政界引退)を強く主張したため、実現しなかった。しかし、翌[[1991年|91年]]6月に行なわれた主要都市や道の議員を選ぶ[[地方議会選挙 (韓国 1991)|広域議会議員選挙]]で民自党が圧勝し、新民党と民主党がともに敗北したことに両党は危機を強め、[[9月10日]]に両党の統合を宣言。同月16日に新民党総裁の[[金大中]]と民主党の[[李基澤]]総裁を共同代表<ref>但し、中央選挙管理委員会への届け出た法的代表は金大中のみである。</ref>とする「'''民主党'''」が改めて結成された。但し、旧・民主党の朴燦鐘と金光一議員は統合に反対して新・民主党への参加を拒否した。
;創党時の党指導部(人物名後の括弧は旧党派)<ref>出典:[[東亜日報]]『東亞年鑑 1992』 62頁「{{lang|ko|민주당}}」(民主党)の「{{lang|ko|개요}}」(概要)より</ref>
*'''共同代表最高委員''':金大中(新民)、李基澤(民主)
*'''最高委員'''
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*'''事務総長''':[[金元基 (国会議長)|金元基]](新民)
*'''院內総務''':[[金正吉]](民主)
出典:[[東亜日報]]『東亞年鑑 1992』 62頁「{{lang|ko|민주당}}」(民主党)の「{{lang|ko|개요}}」(概要)より
 
翌[[1992年|92年]][[3月]]の[[第14代総選挙 (大韓民国)|第14代総選挙]]で97議席を獲得し、躍進を果たしたが、同年12月の[[1992年大韓民国大統領選挙|大統領選挙]]では、金大中候補は民自党の[[金泳三]]候補に大差で敗れた。そのため、金大中は李基沢に代表の座を譲って政界引退を表明したが、[[1995年]][[9月]]に政界復帰し、民主党内の自分を支持する議員(東橋洞系<ref>金大中派の別称で、金大中の自宅所在地が東橋洞であるため、名付けられた。</ref>)を基盤に「'''[[新政治国民会議]]'''」(国民会議)を結成した。金大中が国民会議を結成したことで最大野党の座から転落した民主党は、市民団体が中心となって結成された「改革新党」と統合して「'''統合民主党'''」を同年12月に結成した。→「[[統合民主党 (1995)]]」
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== 主要野党変遷過程(第六共和国・文民政権) ==
[[画像:盧泰愚と金泳三政権期の韓国主要野党変遷.jpg|盧泰愚政権と金泳三政権期の韓国主要野党の変遷過程図]]
 
== 参考資料 ==
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考資料文献 ==
*韓国史編纂委員会 [[金容権]]編著『朝鮮韓国近現代史事典』([[日本評論社]])
*環太平洋研究所編著『韓国・北朝鮮総覧 1993年版』([[原書房]])
*アジア経済研究所編『アジア動向年報』([[アジア経済研究所]])1991年、1992年、1996年版
 
== 脚注 ==
<references />
== 関連項目 ==
*[[韓国の政党一覧]]