「吉田兼直」の版間の差分

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本多忠孝→本多忠国に変更
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吉田兼亮の四男として生まれる。母は[[熊井新八]]の娘。父や兄の[[吉田兼貞]]は吉良邸討ち入りに加わっているが、兼直は加わらなかった。伝内はすでに20を超えているが、庶子であり、部屋住ですらないので浅野家臣の資格がなかったためである。
 
ところが父たちの切腹後の[[元禄]]16年([[1703年]])4月、兼直は一族[[連座]]して伊豆大島へ流されてしまった。兼直の姉の嫁ぎ先の主家本多家の当主で、遺児たちの遠島を聞いた[[本多忠]]は、幕府に許可されている持ち込み上限の金20両・米20俵のぎりぎりに近い、金19両米19俵を伝内に与えた。
 
大島では伊豆代官手代の[[小長谷勘左衛門]]の厳しい監視を受けた。しかしその後、[[浅野長矩|浅野長矩]]正室[[瑤泉院]]による赦免運動があったおかげで、[[宝永]]3年([[1706年]])6月に赦免。江戸へ帰着したのち、伯母が尼をしていた[[洞雲寺]]において出家。僧恵学となった。しかし宝永6年([[1709年]])頃には還俗。「吉田九郎大夫兼直」と名乗るようになった。元文4年(1739年)に死去。父や兄と同じ[[泉岳寺]]に葬られた。戒名は雪山霊光信士。