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[[Image:undergroundrailroadsmall2.jpg|right|400px|thumb|[[1830年]]から[[1865年]]にかけての地下鉄道の経路
'''地下鉄道'''(ちかてつどう、{{lang-en-short|Underground Railroad}}
最も頻繁に使用されていた[[1810年]]から[[1850年]]の間に、30,000 から 100,000人が地下鉄道の助けを借りて奴隷状態から逃れたと推測されているが、公式の国勢調査ではその数は6,000人ほどと計上されている。地下鉄道は一般に「自由」を称揚する価値観の象徴的な存在となっており、同国の[[黒人]]([[アフリカ系アメリカ人]])史においても特筆される事項である。
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==構造==
この逃亡幇助網は、物理的に地面の下に設置されていた訳ではなく、「(地下に)潜る、隠れる」といった「秘密」や[[アンダーグラウンド]]を表す意味で
逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまってもらい、夜中に次の「停車駅」へと旅をした。ただし、毎晩、泊まる所があったわけではなく、森や沼地に隠れなければならないこともあった。
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地下鉄道は一般の鉄道に例えられてできた用語である。この用語を使えば、一見普通の鉄道について会話しているように聞こえるため、秘密を守るために使われるようになった。
*仲介人(agents) - 奴隷たちが鉄道関係者と接触できるように助けた人々
*車掌(conductors) - 奴隷たちを誘導した
*
*
*乗客(passengers)、貨物(cargo)- 逃亡中の奴隷たちを指す言葉。
*奴隷たちは「切符」(ticket)を入手しなければならなかった。
*
自由黒人で商人だった[[:en:William Still|ウィリアム・スティル]]
地下鉄道組織内のメッセージのやりとりには隠語が使われ、関係者以外は理解できないようになっていた。例えば、「2時に、大きなハム4つと小さなハム2つ、『経由で』送りました」という伝言は、一見「大人4人と子供2人を[[ハリスバーグ (ペンシルベニア州)|ハリスバーグ]]から[[フィラデルフィア]]に送った」を意味するが、実は、「経由で」を加えることによって、普通の鉄道で移動したのではなく「[[リーディング (ペンシルベニア州)|リーディング]]経由で」移動したことを意味していたのだ。だから、この伝言を入手した公共事業団体は、奴隷が亡命する前に捕まえようと通常の鉄道の駅で待ち伏せしたが、スティルは別の場所で奴隷たちと落ち合うことができ、後に彼らをカナダに無事に亡命させた。
[[1820年代]]に地下鉄道が発達する以前の[[1600年代]]にはすでに奴隷たちが、補助を得ても得なくても、主人のもとから逃げ出していた。[[メリーランド州]]と[[オハイオ州]]で運営されていたアメリカ
地下鉄道という呼び名は、[[1831年]]に[[ケンタッキー州]]に住む主人から逃亡した[[タイス・デイビッ
===行き先と経路===
奴隷たちが逃亡してめざした北部の州では、歴然とした差別はあったものの、一応、自由の身になれた。だが、1850年の逃亡奴隷法の制定以後、北部の州でさえ住むにはとても危険だった。そのため、カナダなどの外国が逃亡先として好まれるようになった。[[上カナダ]]では[[奴隷貿易]]が[[1793年]]に[[:en:John Graves Simcoe|ジョン・グレイヴス・シムコー
逃亡した奴隷たちの主な行き先は、[[ナイアガラ
::太陽が戻ってきて、ウズラの鳥が歌う頃、ひょうたん型の瓶をたどれ。
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===北部諸州・カナダ以外への行き先===
逃亡奴隷たちは、テキサス州境の[[リオグランデ川]]を越えてメキシコへ渡ったり、[[カリブ海|カリブ]]の島々に亡命したりすることもあった。元奴隷だった[[フェリックス・ヘイウッド]]は、「[[テキサス州]]での奴隷制度」の中で、次のように記した。
::たまに、僕たちに寄り添ってきて、北部の州に走り逃げて自由にさせようと助けようとしてくれる人がいる。僕たちはおかしくて笑ったんだ。だって北に走り逃げる必要なんてないんだ。歩くだけでいいんだ。南に向かって、歩いていけば、リオグランデを超せば、もう僕らは自由なんだから。
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[[1980年代]]以後、[[キルト]]のデザインが暗号の役割を果たし、逃亡中の奴隷たちに道のりや隠れ蓑の方向を合図していたという説が提示されている。民間で語り継がれたこうした史話をもとに書かれた『公然と隠されて:キルトと地下鉄道の秘話』は[[1999年]]に出版され話題を呼んだが、現在、このような伝承の歴史的な裏づけは乏しいとされており、キルトに込められたメッセージが実際に地下鉄道の活動に寄与したかは、キルティングの歴史家を含め、多くの歴史家の間では極めて疑わしいとされている。
ただ、それとは別に、伝統的な[[黒人霊歌]]には暗号的な役割を果たしえた歌詞が含まれていたという見解は、
==法的・政治的見解==
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==カナダへの影響==
少なくとも20,000人あまりの奴隷たちが地下鉄道を通じてカナダに亡命したと推測されている。これは、カナダの社会に多大な影響を与えた。上カナダ([[1841年]]からはカナダ・ウエスト、現在の南オンタリオ)に亡命した奴隷の数が最も多く、黒人カナダ人の自治体がそこで数多く発達した。[[トロント]]、[[ナイアガラフォールズ (オンタリオ州)|ナイアガラフォールズ]]、そして[[ウィンザー (オンタリオ州)|ウィンザー]]の3カ所を結ぶ三角形の中に、そのような自治体のほとんどが存在した。特にトロントには1,000人もの奴隷たちが住み着き、また、ケント郡やエセックス郡には、元奴隷たちの村が数ヶ村設立された。
さらに遠くでは、英国領土(現在はカナダの一部)に黒人たちの集落が構えられた。その中には、ジェームズ・ダグラス総督が黒人の移住を勧めた[[ノバスコシア州|ノバスコシア]]や[[バンクーバー島]]などの島が挙げられる。ダグラスは、黒人のコミュニティーを設置することによって、その島々をアメリカ合衆国と合併しようとする勢力への防波堤の役目を果たせる、と考えたのだ。
目的地に着いたときに、失望させられた逃亡者たちも数多くいた。
南北戦争が始まったことで、他国に亡命していた数多くの黒人たちが連邦国軍の兵隊に徴募し、その後カナダに戻った黒人たちもいた中で、たくさんの黒人が米国に残った。また数千人もの黒人たちが、終戦後、家族や友達と再会するために、南部の州に戻っていった。ほとんどの黒人たちが、奴隷解放や再建時代の動きのもたらす未来に、希望をもっていた。
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