「郤缺」の版間の差分

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[[文公 (晋)|文公]]が死に、[[襄公 (晋)|襄公]]の代になると、郤缺は[[狄]]を討って功を立て、父の郤芮の封地であった冀を賜ったが、用心されたために兵は与えられなかった。
 
[[趙盾]]が宰相となり[[襄公 (晋)|襄公]]が死ぬと、趙盾は[[霊公 (晋)|霊公]]を立てたが、[[秦]]に亡命した[[士会]]が秦[[康公 (秦)|康公]]に用いられて、[[晋 (春秋)|晋]]を苦しめだすと、趙盾は[[六卿]]を集めて諮った。「随会(士会)は秦におり、賈季([[狐射姑]])は[[狄]]にいて、そのため毎日のように国難がやってくる。どうしたらよいか」
 
[[荀林父]]は「賈季を戻しましょう。かれは国外の事情に通じており、物事を処理する才能があり、そのうえ殊勲者の子です」と言ったが、郤缺は「賈季は謀反人です。その罪は重い。随会を戻しましょう。かれは身分は卑しくとも恥をわきまえており、柔順でありながら人に唆されて不義を為すことが無く、その智謀は国の役に立つ」と言ったので、趙盾は士会を戻すことに決めた。
 
やがて[[霊公 (晋)|霊公]]が[[趙穿]]に殺されて、[[成公 (晋)|成公]]の時代になると郤缺は成公から信頼されて正卿の地位につく。謀反人の子である郤缺が宰相になったのをみて、人々は郤缺の徳を褒め称えた。
 
[[成公 (晋)|成公]]が死んで、[[景公 (晋)|景公]]の代になると、[[赤狄]]の動きが活発化したので、郤缺は[[狄]]の諸部族に和睦を申し入れた、赤狄に使役されることを嫌い、晋に服従を申し入れる部族がかなりの数に昇ったので、晋の大夫たちは狄の諸族を晋に呼びつけて会合しようとしたが、郤缺は「こちらが勤労しないようでは、人を従えることは到底出来ません」と言ったので[[景公 (晋)|景公]]は自ら赴いて[[狄]]の諸族と会合した。[[狄]]の諸族はこの会合に信義をみて以後よくなついた。
 
子の[[郤克]]ものちに[[晋 (春秋)|晋]]の[[晋 (春秋)|正卿]]となった。
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