「ヨハネス12世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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== ローマ教皇として ==
苦労知らず、世間知らずな若者であったヨハネス12世は、教皇になったあと、周辺の事情も考えずに無謀な[[教皇領]]拡大に乗り出して[[イヴレーア|イヴレア]][[辺境伯]]でのちにイタリア王[[ベレンガーリオ2世]]([[950年]] - [[963年]])となる[[イヴンガリオ2世|イヴレア]][[辺境伯]]ベレンガーリオ]]と戦って大敗を喫し、逆に攻め込まれる羽目となった。窮したヨハネス12世は、[[東フランク王国]]の[[国王]][[オットー1世 (神聖ローマ皇帝)|オットー1世]]に救援を要請し、彼の援軍を[[ローマ]]に迎えることで窮地を脱した。そして、この見返りとして[[962年]][[2月2日]]、オットーに対し「ローマ皇帝」の帝冠を与えた。これが、'''[[神聖ローマ帝国]]'''の始まりである。
 
[[ファイル:Otto I begegnet Papst Johannes XII.jpg|left|thumb|250px|オットー1世と会見するヨハネス12世(14世紀の描画)]]
オットー1世は新たに教皇領を[[寄進]]したが、同時に「皇帝に忠誠を宣誓してからでなければ教皇職には叙任されない」と定めた。ここに至ってオットーに反意を抱いたヨハネス12世は今度は旧敵ベレンガーリオと手を結んだが、これはオットー1世の臣下によって事態が露見した。ここに至って教会内部でもヨハネス12世に対して反発の声があがり、不満を持つ者も多く現れて、[[963年]]、ヨハネスは皇帝オットー1世によってローマ教皇廃位宣告された。後任の教皇として、レオ([[レオ8世 (ローマ教皇)|レオ8世]])が即位した。
 
後任の教皇として、レオ([[レオ8世 (ローマ教皇)|レオ8世]])が即位した。
 
== ヨハネスの急死と「鉄の世紀」 ==