「中国大返し」の版間の差分

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なお、秀吉に変報が伝わったとき、軍師[[黒田孝高]]はそのかたわらにおり、秀吉に主君信長の仇を討つよう進言したといわれている<ref name=michi8>『真説歴史の道第8号』(2010)p.8</ref><ref>『毛利家文書』『當代記』などでは、黒田孝高が秀吉に対し、本能寺の変報を天の加護を得たものだ、これで何ごとも意のままになったと語ったと伝えている。高柳(1958)p.238</ref>。このとき毛利氏は、信長との直接対決を回避しようとしていたのであり、ここでは、情報入手における微かな時間差が、その後の両者の命運を大きく分けたことになる<ref name=ikegami133>池上(2002)pp.133-134</ref>。
 
[[ファイル:備中高松城址Bitchu Takamatsu castle ruins.jpg|260px|right|thumb|備中高松城本丸址公園]]
 
変報を知った秀吉は、情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自刃に対しても緘口令をしいて毛利側に信長の死を秘して[[講和]]をむすび、一刻もはやく上洛しようとした<ref name=100nin/>。秀吉にとって幸運だったのは、毛利側も、清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり、秀吉との和睦に傾いていたことであった<ref name=michi8/>。秀吉はただちに6月3日の夜のうちに毛利側から外交僧[[安国寺恵瓊]]を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた[[備中国|備中]]・[[備後国|備後]]・[[美作国|美作]]・[[伯耆国|伯耆]]・[[出雲国|出雲]]の5か国割譲に代えて備後・出雲をのぞく備中・美作・伯耆の3か国の割譲と高松城主清水宗治の[[切腹]]が和睦条件として提示された<ref>秀吉と毛利の講和については、本能寺の変以前から領土画定交渉もふくめ進行していたとする見解がある。藤田(2003)pp.146-148</ref>。秀吉側は毛利氏にあてて[[内藤広俊]]を講和の使者に立てている。忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、そのとき宗治を説得したのが安国寺恵瓊だったといわれている<ref name=nakamura/>。恵瓊は、高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き、ついに宗治も決断した。