「板倉氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tajima73 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
13行目:
'''板倉氏'''(いたくらし)は、[[日本]]の[[氏族]]の一つ。通し字は'''「勝」'''、'''「重」'''
 
[[渋川義顕]]([[足利泰氏]]の次男(実際には[[足利兼氏]]))を源に辿る。義顕は当初は[[足利庄]]の板倉の地を領して[[本貫]]とし、板倉二郎と称したことで知られ、また、[[室町時代]]の[[渋川義鏡]]の[[代官]]に板倉姓の人物が見えるなど([[板倉頼資]])、板倉姓は渋川氏と縁が深い姓である。
 
三河の板倉氏は、義鏡の子孫で三河に流れた[[板倉頼重]]が祖とされ、頼重・[[板倉好重|好重]]父子は[[深溝松平家|深溝松平氏]]に仕える。頼重の孫が、のちに[[京都所司代]]になり、[[大名]]に取り立てられた[[板倉勝重]]である。勝重の父[[板倉好重]]が[[1561年]]の[[善明提の戦い]]で戦死、さらに[[1581年]]には[[高天神城の戦い]]で板倉家の家督を継いでいた[[弟]]の[[板倉定重|定重]]が戦死。このため勝重が還俗し、家康に仕えると吏僚として活躍した。
 
[[江戸時代]]には、勝重に始まる[[備中松山藩]]の他、[[安中藩]]、[[福島藩]]、[[庭瀬藩]]などいくつかの分家を出し、幕末に至る。
また、板倉勝重妻<ref>粟生永勝女。</ref>は先夫中島重次の子を連れて再婚し、その子・重好を勝重の養子とした。後に実父の家系を再興し、[[交代寄合]][[旗本]]中島與五郎家<ref>三河国[[渥美郡]]大崎607石</ref>の祖となった。なお板倉氏は室町期半ばの系譜に不自然なところもあると指摘されていて本当に渋川氏の流れかどうかあやふやな点もある
 
<br clear="both" />
<br clear="both" />  ==系譜==
'''凡例''' 太線は実子、細線は養子、数字は何代目かを指す。 *は 同一人物
1 = 宗家([[関宿藩]]→[[伊勢亀山藩]]→[[鳥羽藩]]→伊勢亀山藩→[[備中松山藩]])