「楊応龍の乱」の版間の差分

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1592年(万暦20年)、重慶に召還された楊応龍は斬刑を言い渡されるが銀2万両で贖罪、またこの年に始まった[[文禄・慶長の役]]に5000人の兵を率いて参戦することを表明して釈放された。ただし、明朝からは参戦の必要なしと通告され播州へ帰国している。しかし、帰国後も楊応龍の横暴は収まることが無く、再度の告発を受けたが、朝鮮情勢を受けた明朝の影響力低下を受けて今度は取り調べを拒否した<ref name="okano1971"/>。
 
1594年(万暦22年)10月、ついに明朝は懐柔政策からの転換を図り、南京侍郎の[[ケイカイ|&#x90a2;&#x73a0;]]により鎮圧に乗り出した。ケイカイ&#x90a2;&#x73a0;は楊応龍に投降を促したが、楊応龍の失脚を狙う五司七姓により途中で阻まれた。結局、楊応龍は黄元等12人の身代わりを処刑し、4万金を納め、採木による資材提出を行い、次子の楊可棟を人質に出し、宣慰使は嫡子の楊朝棟に譲ることで再度死刑を免れた<ref name="okano1971"/>。
 
1596年(万暦24年)7月、人質となっていた可棟が死去すると楊応龍は態度を硬化、贖罪金の支払いを拒否した。一方で、敵対勢力へ略奪を行い、原住民の苗族を厚遇して独立色を強めていった。この年、楊応龍は余慶・草塘にて略奪を行い、興隆・偏鎮・都キン等の衛所を攻め、五司の内の黄平・重安の一族を誅殺した<ref name="okano1971"/>。
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1599年(万暦27年)、朝鮮情勢が解決に向かうと、明朝は[[遼東]][[巡撫]]へ転出していた李化龍を湖広川貴軍務総督兼四川巡撫として起用し、郭子章と共に播州の鎮圧に向かわせた。李化龍は、楊応龍の軍勢は14、5万はおり、対抗するためには四川・貴州・湖広の財源は不足しており、当年に戦費のための増税を実施した<ref name="okano1971"/>。
 
翌年の1600年(万暦28年)に楊応龍が龍泉を占領すると、重慶に駐屯していた李化龍は8路より各3万の軍勢を率いて進撃を行ったが、この時の兵士は3割が官兵で7割が土兵であったという<ref name="okano1971"/>。これらの軍勢には朝鮮で戦った[[劉テイ|劉&#x7d8e;]]や[[陳リン|陳&#x7498;]]が動員され、その家丁には朝鮮で投降した日本兵(降倭)が鉄砲兵力として編入されており[[仏郎機砲]]などの火器と共に、弓矢にて武装していた楊応龍軍を圧倒した<ref name="kuba2002">久芳崇「16世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播--万暦朝鮮の役から播州楊応龍の乱へ」2002年</ref>。苗族は楊応龍と共に集い、同調して侵略を行っていたが、明朝による包囲が狭められると共に離反していった。楊応龍は海龍にて包囲され、籠城戦となり翌年の1601年(万暦29年)6月に愛妾2人と共に自殺し、楊応龍の乱は収束した<ref name="okano1971"/>。
 
== 出典 ==