「近藤周助」の版間の差分

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== 人物 ==
[[武蔵国|武州]][[多摩郡]]小山村の名主嶋崎休右衛門の5男として生まれ、[[文化 (元号)|文化]]8年([[1811年]])、20歳で[[近藤三助]](天然理心流剣術2代目)の弟子となり、[[天保]]元年([[1830年]])に流派を継いで、近藤の姓を名乗る。なお、近藤周助は三助より剣術の免許のみを得ており、また近藤姓を名乗った[[天保]]元年には既に[[近藤三助]]の死後11年が経過していた。三助には何人もの高弟がおり、天然理心流の三術(剣術、柔術、棒術)の免許を得た弟子も何人か存在するため、周助が近藤姓を名乗った理由は謎とされている。
 
天保10年([[1839年]])、[[江戸]]市谷甲良屋敷(現[[市谷柳町|新宿区市谷柳町]]25番地)に移転、[[天然理心流剣術]]道場[[試衛館]]を開設。[[嘉永]]2年([[1849年]])、宮川勝五郎(後の[[近藤勇]])を養子に迎え、嶋崎(のちに近藤)の姓を与える。[[文久]]元年([[1861年]])代を勇に譲り、隠居し、名を周斎と改める。