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1534年1月、マルメーでは大司教の命により[[ルーテル派|ルター派]]説教師が追放されたことに対し騒乱が発生した。そして4月クリストファ伯はリューベックの傭兵の支援を受け、ホルシュタインを攻撃、コペンハーゲンやマルメーといった都市、[[シェラン島]]や[[スコーネ]]はクリストファ伯の支持に回り、伯爵戦争が勃発した<ref name=saho54-58/>。
 
クリストファ伯は[[ユトランド半島|ユラン半島]]の勢力確保のために、クリスチャン2世の部下であった[[船乗りクレメント]]([[:en:Skipper Clement|en]])を利用した。船乗りクレメントはクリストファ伯の求めに応じ、 [[:en:Vendyssel| Vendyssel]]やユラン半島北部の農民たちに対し、貴族達に蜂起するよう扇動した。反乱の中心は[[オールボー]]であった。ユラン半島北部や西部の荘園が農民の蜂起で焼失しき討ちにあった。1534年8月10日、クリストファ伯はクリスチャン2世がスコーネを支配することを受け入れた。また、遡ること一月前、クリストファ伯はクリスチャン2世の代理としてシェラン島の[[:en:Ringsted|Ringsted]]においてシェラン島議会により歓呼して迎えられた<ref>{{cite web |url=http://www.roennebech.dk/www_fredericiashistorie/html/fredericia/artikler/Grevens_fejde.html |title=Grevens Fejde 1534-1536
|date=|accessdate=2010-10-11 |publisher=Erik F. Rønnebech|format=}}{{da icon}}</ref>。
 
 
=== Svenstrupの戦い及びオールボーの戦い ===
[[:da:Niels Brock|Niels Brock]]と[[:da:Holger Holgersen Rosenkrantz|Holger Rosenkrantz]]率いる貴族軍は1534年10月16日、Svenstrupの戦い([[:da:Slaget ved Svenstrup|da]])で敗北を喫した。クリスチャン3世は反乱軍に抵抗するためにホルシュタイン公国領限定でリューベックと一時の講和を結んだ<ref>佐保(2003)p.66</ref>
 
その後、ホルシュタインにおけるリューベックからの圧力を回避できることになったことから、クリスチャン3世の部下側近である[[ヨハン・ランツァウ]]率いる王国軍はオールボーまで遥々、農民軍を追いこんだ。船乗りクレメントは農民をオールボーの城砦に避難させた。12月18日、ランツァウの軍隊はオールボーを急襲<ref name=saho54-58/>、少なくとも2千人の農民がこの戦いと戦いの後の略奪で命を落とした。船乗りクレメントは負傷しながらも辛うじて脱出したものの、数日後にはオールボーの東方のStorvordeの農民に発見され、ランツァウに引き渡された。船乗りクレメントはその後、[[ヴィボー]]の裁判所で死刑を宣告され、1536年に死刑が執行された<ref>{{cite web |url=http://graenseforeningen.dk/artikel/3724 |title=Grevens Fejde, borgerkrig 1534-1536
|date=|accessdate=2010-10-11 |publisher=Grænseforeningen|format=}}{{da icon}}</ref>。船乗りクレメントの引き裂かれた頭部には鉛の王冠がかけられ、切断された四肢は張りつけ棒につけられた<ref>佐保(2003)p.66、p.74 脚注55.</ref>。
 
=== ヘルシンボリの戦いおよびØksnebjergの戦い ===
カトリック信者やスウェーデン・デンマーク国境の農民には幸運は訪れなかった。クリスチャン3世の姻戚に当たるスウェーデン王グスタフ=ヴァーサはクリスチャン3世を支援すべく挙兵、スコーネ南端の[[:en:Vä|Vä]]に進撃するにあたり、Gonge([[:en:Östra Göinge Municipality|en]])を略奪し、放火、殺戮していった。その後、スウェーデン軍は[[ハッランド県|ハッランド地方]]に侵攻し破壊の限りを尽くした。スコーネの貴族の多くはスウェーデン側に付いたものの、ヘルシンボリ城内の[[:da:Tyge Krabbe|Tyge Krabbe]]はクリストファ伯を支持した。1535年1月、スウェーデン軍と傘下の貴族は[[ヘルシンボリ]]に進出した。ヨーアン・コック率いるリューベックとマルメーの軍隊は城外の塹壕に入った。その後、Krabbeは突然、寝返り城の大砲を守備兵に砲撃し、城をスウェーデン軍に明け渡し、ヘルシンボリは灰燼に帰した。クリストファ伯は[[エーレスンド海峡]]を喪失し、コペンハーゲンに撤退、戦場はシェラン島、[[フュン島]]へ移った。
 
[[File:Johan rantzau.jpg|150px|right|thumb|ヨハン・ランツァウ]]
 
== 参考文献 ==
*{{Cite journal|和書 |author=[[佐保吉一]] |year=2003 |title=デンマーク宗教戦争における伯爵戦争(1534-36年)について |journal=北海道東海大学紀要 人文社会科学系|issue=16 |pages=pp.57-77 |publisher=[[北海道東海大学]]}}
*{{Cite book|和書|author=[[橋本淳]](編)|title=デンマークの歴史|year=1999|publisher=[[創元社]]|id=ISBN 4-422-20222-7}}
**[[牧野正憲]] 「第2章 北欧・バルト海の覇者へ」
**[[佐保吉一]] 「第3章 宗教改革と三十年戦争」
*{{Cite book|和書|author=[[百瀬宏]]・[[熊野聰]]・[[村井誠人]](編)|title=北欧史|year=1998|publisher=[[山川出版社]]|id=ISBN 4-634-41510-0}}
**熊野聰・牧野正憲・[[菅原邦城]] 「第4章 内乱と王権の成長」
6,325

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