「河合曾良」の版間の差分

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[[信濃国]]下桑原村(現[[長野県]][[諏訪市]])の高野七兵衛の長男として生まれる。幼名は与左衛門。その後、両親が亡くなったため伯母の養子となり、岩波庄右衛門正字と名乗る。12歳の時、養父母が亡くなったため[[伊勢国]]長島の親戚の元に引き取られる。
 
[[寛文]]8年([[1668年]])頃より[[長島藩]]主[[松平康尚]]に仕え、河合惣五郎を名乗る。[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])頃に致仕。江戸の[[吉川惟足]]に[[吉川神道]]を学ぶ。[[元禄]]2年([[1689年]])、[[松尾芭蕉]]の『[[おくのほそ道|奥の細道]]』の旅に同行し、「曾良旅日記」(没後数十年を経て、[[昭和]]18年(1943年)に所在が判明した[[天理大学]]図書館([[天理大学附属天理図書館]])に[[重要文化財]]で所蔵)を残した。
 
宝永6年([[1709年]])に幕府の巡見使随員となり九州を廻るが、その途上で翌年、[[壱岐国]]可須村風本(現[[長崎県]][[壱岐市]]勝本浦)で病没。享年62。戒名は賢翁宗臣居士。墓所は[[壱岐島]]の能満寺。[[元文]]5年([[1740年]])、没後30年を経て故郷・諏訪の正願寺にも墓標が建てられた。
 
[[平成]]6年([[1994年]])5月24日に旧勝本町と諏訪市が河合曾良の終焉の地と生誕の地としての縁で、友好都市提携を結び、旧勝本町が旧[[壱岐郡]]3町と合併([[平成の大合併]])後も壱岐市に受け継がれ
 
== 著名な句 ==