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'''菅沼 守人'''(すがぬま もりと、{{jdate|[[1942}}年]]〈[[昭和]]17年〉[[7月27日]] - )は[[日本]]の[[合気道]]家。合気道([[合気会]])八[[段級位制|段]]。[[特定非営利活動法人|NPO法人]]合気道祥平塾([[福岡市]])[[理事長]]・道場長。全日本合気道連盟理事。「合気道開祖[[植芝盛平]]最後の[[内弟子]]」と呼ばれる[[師範]]の一人<ref>同期に[[遠藤征四郎]]、[[藤田昌武]]がいる。</ref>。
 
==略歴==
[[福島県]]出身。学生時代[[棒高跳び]][[選手]]として活躍、[[順天堂大学]][[体育学部]]に入学し[[オリンピック]]選手を目指すも、故障のため断念し同大学を中退、{{jdate|[[1963}}年]](昭和38年)[[亜細亜大学]]に入学し合気道部に入部、[[田村信喜]]に指導を受ける。
 
大学卒業後の{{jdate|[[1967}}年]](昭和42年)、合気会本部道場([[東京]])に入門、植芝盛平が死去するまでの2年間、[[内弟子]]として側に仕える。また[[植芝吉祥丸]]、[[大澤喜三郎]]らに指導を受ける。
 
{{jdate|[[1970}}年]](昭和45年)[[4月3日]]、当時合気会の勢力が少なかった[[九州]]へ普及のため合気会本部より派遣される。{{jdate|[[1977}}4年]](昭和52年)4月3日、[[福岡県|福岡]]に「合気道祥平塾」を設立。「祥平塾」の名は、植芝盛平と二代目合気道道主・吉祥丸から一字ずつ取ったもので、吉祥丸の命名による。傘下[[道場]]は九州を中心に全国に広がり、[[オランダ]]・[[カナダ]]・[[ノルウェー]]・[[イスラエル]]・[[中華人民共和国]]など日本国外にも支部を持つ。
 
{{jdate|[[1981}}年]](昭和56年)には[[曹洞宗]]管長(大本山[[總持寺]]第21世住持)[[梅田信隆]]に入門、[[禅]]の修業を積む。現在残り少ない「植芝盛平の直弟子」「開祖最後の内弟子」として各地で合気道の指導に当たる。
 
==人物・エピソード==
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* 内弟子時代から同期の[[遠藤征四郎]]と共に合気会の将来を担う若手の逸材として期待され、「[[龍虎]]」「技の菅沼、力の遠藤」などと並び称された。毎年[[日本武道館]]で開かれる合気会主催の「全日本合気道演武大会」では、菅沼と遠藤が中央の畳のそれぞれ対角位置で演武を行っていた。(現在は単独で行っている。)
* 本部道場の若手指導員時代、ある[[演武|演武会]]で二代目道主吉祥丸の受けを務めた時のこと、吉祥丸に向かって[[杖術|杖]]で突いて行こうと踏み出した瞬間、つま先で自らの[[袴]]の裾を踏み、その場で前のめりにバッタリ倒れ込んだ。翌日演武会を取材した[[新聞]]には「さすが道主、触れる前に相手を倒す神がかりの演武」なる見出しが躍っていたという。
* 盛平没後の{{jdate|[[1969}}年]](昭和44年)、当時合気会[[熊本]]支部長であった[[砂泊かん秀]]が[[万世館合気道]]として合気会から独立したため、九州の合気会傘下[[道場]]は激減した(砂泊は盛平から私的に九段位と「九州師範長」の免状を与えられており、九州での道場の多くが砂泊の傘下にあった)。合気会本部はこの劣勢を挽回する大任を当時27歳の菅沼に託し九州に派遣した。「祥平塾」設立当初わずか20名でスタートした菅沼の門下生は日本・海外で現在3,000人を超え、入門経験者はのべ2万人に達するという。
* [[書画]]を長年の趣味とし、[[2005年]]には作品集も[[出版]]された。特に得意とする[[達磨]]の絵は菅沼のトレードマークともなっている。
 
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<references/>
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:すかぬま もりと}}
[[Category:合気道家]]
[[Category:植芝盛平の門人]]