「トルテカ帝国」の版間の差分

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トルテカにまつわる伝承の多くにあらわれる「トゥラン」あるいは「[[トゥーラ]]」が、これらの語が「都市」を表す普通名詞でもあるにもかかわらず、具体的なトゥーラ遺跡のひとつである[[トゥーラ=シココティトラン]]([[イダルゴ州]]トゥーラ。以下、便宜上単に「トゥーラ」と記す)を指すと考え、その実在を主張する説は、研究者の間でも長くあとをたたなかった。その大きな原因をつくったのはメキシコの歴史家として知られるウィグベルト・ヒメネス・モレーノであった。ヒメネス・モレーノは、文献記述中のさまざまな部族の移動ルートを検証し、地理的な記述、王朝の系図を暦関連の記述、ケツアルコアトルに関する伝承を突合し、イダルゴ州トゥーラが伝承上の「トゥーラ」であることをつきとめたが、他の成果については、後述するように複雑な資料操作による矛盾を指摘する研究者もいる。
 
==ヒメネス・モレーノ説とトルテカ帝国伝承==
===トルテカ帝国伝承===
そのような考え方は、ヒメネス・モレーノ説に沿って伝承を解釈する記述で、1960年代の欧米の研究者の著作にみられる。たとえば、[[ユーリ・クノロゾフ]]の[[マヤ文字]]解読の成果をアメリカでいち早く認めるなど<ref>当時は[[冷戦]]の影響でアメリカの研究者は[[エリック・トンプソン|トンプソン]]をはじめとしてその成果を認めた研究者はいなかった。コウと[[タティアナ・プロスクリアコフ|プロスクリアコフ]]だけがその成果が画期的であったことを認めていたという。cf.マイケル・コウ/増田監修・武井・徳江(訳)『マヤ文字解読』,[[創元社]],2003年</ref>国際的にも第一人者とされるマイケル・コウが1962年に著した『メキシコ』<ref>邦訳は、寺田和夫・小泉潤二による1975年の学生社刊。以下「コウ1975」とする。</ref>に典型的にみることができる。トルテカ帝国は、かっては、メキシコ西部の[[ウト・アステカ語族]]に属する半文明化したチチメカであるトルテカ・チチメカ族とノノアルカと呼ばれるプエブラ州およびメキシコ湾岸に住む彫刻や建築をよくする職人的な人々によって築かれたとする。中心的なのはトルテカ・チチメカであった、とする(コウ1975,p.162)。
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セ・アカトル・トピルツインは、首都をクールワカンからトゥランシンゴ、[[トゥーラ=シココティトラン|トゥーラ]]に遷都した。
 
セ・アカトル・トピルツインは、自らの身をドゲで刺すなどをはじめとしてさまざまな宗教的な苦行を行い、[[ケツァール|ケツァル鳥]]の羽根の針や[[ヒスイ]]でできた刺をつくり、儀式の際に焚く香にヒスイ、トルコ石、赤い貝殻を燃やしたという。[[人身御供]]を好まず、鳥や蛇および蝶のみをいけにえとしてささげるなどの神官王として、「行動の見本を求めた。」「トウーラの法を定めた。」とされるほどの名声を得た。しかし、それは、彼にあきたらない「テスカトリポカ」<ref>タウンゼントは、「[[シャーマン]]的な魔術師または[[トリックスター]]」とする(タウンゼント2004,p.65)。</ref>を信奉する好戦的な戦士集団との権力抗争のもととなった。
 
「ケツァルコアトル」(おそらくセ・アカトル・トピルツイン)<ref>他の文献と照合すると文脈上セ・アカトル・トピルツインのこととみなすことができる。あくまでも伝承であってすべて事実を反映するものではない意味で実在の人物にあてはめるのに疑問を覚えること、テスカトリポカ勢力との伝承的記述のバランスと、松村1928,社会思想社1984に準じてカッコ付きの「ケツァルコアトル」とする。</ref>がトルテカの王であるとき、それを苦々しく考えた「テスカトリポカ」<ref>松村は、「アステカの神」(松村1928,社会思想社1984,p.37-39)とする。</ref>がクモに変身し王宮へいき[[プルケ酒]]を「ケツァルコアトル」にすすめた<ref>または、老人の姿になって、衰弱する薬を飲ませた(コウ1975,p.164)、「小柄な老人に変身して、」「飲み薬を差し出した」(タウンゼント2004,pp.65-66)ものが実はプルケ酒であった。</ref>、とする。
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「ケッアルコアトル」は、正気に戻り、敵の手に都をおめおめとわたすまいと、宮殿を焼き払い、宝物を隠してしまった<ref>または、「追放され、財宝を焼きつくし、埋めつくした」(コウ1975,''loc''.''cit''.)とする。</ref>。
アステカの「神官」<ref>松村は「アステカ族の魔術師」(松村1928,社会思想社1984,p.38-39)、コウは、「彼を欺こうとする魔法使い」(コウ1975,p.165)とする。</ref>たちは、「ケッアルコアトル」を引き止め、宝物の所在を聞き出そうとしたが、がんとして聞かず、メキシコ湾岸<ref>これについては、松村は「[[タバスコ州|タバスコ]]」(松村1928,社会思想社1984,p.39)と明記する。松村が用いているのはルイス・スペンス(Spence,L Myths of Mexico and Peru /Spence,L Mythologies of Mexico and Peru )の著作であるからその記述によるのかもしれない。「ケッアルコアトル」は都を去った後、[[イシュタクシワトル山]]と[[ポポカテペトル山]]の間にある「嵐の小径」に来たとき、忠実な従者や小姓たちを雪が降りしきる寒さのなかで喪ってしまう。そののちメキシコ湾岸まで旅をして、ケツァル鳥の羽で飾った衣装を着て、[[トルコ石]]の仮面をつけて自ら火の中に入り、または薪をくべて自らの身体を焼かせ(松村1928,社会思想社1984,pp.42-44)、と炎の中から天へ昇って明けの明星([[金星]])になった、とされる。「灰が天に昇る」(コウ1975,p.165)、[[心臓]]が天に昇る(松村1928,社会思想社1984,p.44)という話とがある。</ref>までくると蛇のいかだに乗って日が昇る方向(東)へ去っていった。この「ケッアルコアトル」が、マヤでいう[[ククルカン]]であり、[[987年]]にマヤの地を征服したとされ、[[ユカタン半島]]の各地にメキシコ中高高原の勢力の侵入をうかがわせる[[ナワ語]]地名の分布や建築様式、[[チチェン・イッツア]]の戦士の神殿の壁画などをはじめとする考古資料にもみられる<ref>コウ1975,p.165,コウ2003,pp221~227pp221-227など。コウは、トピルツイン・ケッアルコアトル=ククルカンと断定している。</ref>。
 
セ・アカトル・トピルツインが[[トゥーラ=シココティトラン|トゥーラ]]を去った年代としては、『[[クアウティトラン年代記]]』などの記述から、誕生から52年のサイクルが一巡<ref>日本の暦の[[干支]]の一巡が60年([[還暦]])で甲子(きのえね)にもどるのが、52年で一巡すると考えれば理解しやすい。cf.[[カレンダー・ラウンド]]</ref>した「一の葦の年」である紀元[[895年]]である<ref>大井2003,p.34</ref>とする。一方、大井の紹介するヒメネス・モレーノ説による年代は紀元[[987年]]である<ref>大井1985,p.191</ref>。
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と紹介している。大井は、「トルテカ帝国」について、ヒメネス・モレーノが文献の年代がすべて間違っていて、改ざんされており、異なった都市の異なった人物の歴史とされているのは、特定の一都市の特定の一人物の記述であるという前提で資料操作を行っている、とし、文献の年代は基本的に正しく、改ざんは記述内容のみにとどまる、とした。具体的には、トルテカ・チチメカ族による歴史書『トルテカ・チチメカ史』でトゥーラに到着したのは[[1064年]]という記述がある一方で、『クアウティトラン年代記』では、同じ年にトルテカの時代が終焉したという記述があること、チチメカ族がトルテカ族を自称しているだけで、トゥーラを建設したとは述べていないこと、同じようにチチメカ族はテオテナンゴという都市を征服後、テオテナンカと名のっていることなどを挙げている。
しかし、この大井説は、メソアメリカ史や考古学者を悩ましているチチメカとヒメネス・モレーノの資料操作の矛盾や混乱をすっきり解決できるという大井の主張にもかかわらず、欧米を中心とする「主流派」研究者には全く受け入れられていない<ref>大井はトルテカとはテオティワカンを倒したケツァルコアトル信仰をもっている集団とするが(大井1985,pp.191-201)、コウは、チチメカとの親縁関係を指摘する記述を行っており(コウ2003,p.221)、タウンゼントも非常に肯定的に扱っている(タウンゼント2004,pp.61-69)。</ref>
 
1960年代には、トルテカ帝国は、メキシコの東岸から西岸までメキシコ中央部の大部分を支配した<ref>コウ1975,p.165</ref>と考えられていたが、このようなトルテカ帝国説の根拠として提示されたものの多くはきわめて不完全であって、タウンゼントは、「考古学上のたしかな手がかりはほとんどない」(タウンゼント2004,p.68)と、前置きしつつ、せいぜいトゥーラ周辺からやや西方のトルーカ盆地からメキシコ盆地の一部までを含む狭い範囲にとどまり、[[アステカ]]のように貢納を強いて逆らう者は軍事力によって討伐する、という形であったろう<ref>タウンゼント2004,p.68</ref>、としている。
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*同「文明興亡の大地 メキシコ高原」『季刊文化遺産15』所収,pp.24~36,(財)島根県[[並河萬里]]写真財団,2003年
*[[:en:Michael D. Coe|マイケル・コウ]]/寺田和夫・小泉潤二(訳)『メキシコ』,学生社,1975年
*同/[[長谷川悦夫]]・[[加藤泰建]](訳)『古代マヤ文明』,[[創元社]],2003年
*松村武雄(編),社会思想社編集部(再録・再編)『マヤ・インカ神話伝説集』(松村武雄(編)「メキシコ・ペルー神話伝説集,『神話伝説体系』,1928年),社会思想社現代教養文庫,1984年
*リチャード・タウンゼント/増田義郎(監修),武井摩利(訳)『図説アステカ文明』,創元社,2004年